小さなお茶会 ~じるこん堂へようこそ~

匂いの迷路をひげの指すとおり進めば 少々思わぬことに出くわしても辿りつける…らしい。

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風神雷神図屏風 

風神雷神3者


10月1日までということで、慌てて見に行きました。
ええもの見せて頂きました。ナム~(‐人‐)と両手を合わせたいと思います。

イヤーエステ
 ↓
耳かき屋
 ↓
江戸時代
 ↓
杉浦日向子
 ↓
百物語
 ↓
上方文化
 ↓
江戸琳派

という訳で、2006年9月9日~10月1日までの【国宝 風神雷神図屏風 宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造】展(東京・出光美術館)を見てきましたよ!(我ながらなんてスムーズな流れw)

きっと美術にそんなに興味はなくとも

「ああ、それ!学校の教科書で見たことある!」

とすぐに分かるほど、その絵柄はインパクトが大きいと思う。
そして誰が見ても

「風神と雷神でしょ」

と分かるであろう強烈な印象を残すことでしょう。




以下出光美術館本展示図録参照。

風神雷神1

俵屋宗達 生没年未詳
『風神雷神図屏風』 
 国宝 京都建仁寺 (各)154.5×169.8cm 
 二曲一双 紙本金地着色


風神雷神2

尾形光琳 万治元年(1658年)正徳6年(1716年) 
『風神雷神図屏風』 
 重要文化財 東京国立博物館 (各)166.0×183.0cm 
 二曲一双 紙本金地着色


風神雷神3

酒井抱一 宝暦11年(1761年)文政11年(1828年)
『風神雷神図屏風』 
 出光美術館 (各)170.7×170.2cm 二曲一双 紙本金地着色





元は江戸時代初期俵屋宗達の屏風絵『風神雷神図屏風』。
宗達はもともと上層の京町衆の出で、天賦の造形的才能を活かして桃山時代から江戸初期に活躍した絵師である。
もちろん風神雷神そのものは仏教系の美術において釈迦を守る眷族として周知されている神々ではあるが、この二伸を大胆にクローズアップして作品にした図案は宗達以前には存在しないと言われているものだ。

実際は宗達の落款がないことから正確な年代は不明だが、宗達最晩年の寛永期(寛永16年1639年)前後ではないかというのが現在の研究家の有力な説となっている。
また、今現在もその正確な存在理由は不明なのがこの『風神雷神図屏風』に人々が弾きつけられる理由でもあろう。
いつの時代にも謎は最大の吸引力を持つ。

宗達は上方(京)の扇屋を営む上層町衆でありながら、その才能故か後年には公武の貴族たちから障屏画を含む作画依頼をこなし、本来僧綱(そうごう)の位である法橋位(ほうきょうい)を朝廷から与えられたほどの人物である。
にも関わらず、この方はその生没年も定かではない。
ますますミステリアスである。
女はこのような神秘的な存在に弱いのである。
きっと当時からモテたのに違いない。

同じく、宗達に並々ならぬ尊敬を抱いていたであろう後年の宗達研究者であり後継者となる尾形光琳もまた江戸中期の絵師であり、京で皇室御用達の裕福な呉服商「雁金屋」の次男坊である。
もっとも、光琳は放蕩息子だったらしく、家業を受け継いだもののその資産を10年たらずで使い果たしてしまっている。
光琳が絵師として立つのは、そうした苦しい生活がために40代にもなろううという頃に始めたものだというのは不幸なのか幸運なのかわからない人生、いや、それを超えた何か運命とさえ言える流れを感じさせるのである。

この光琳の祖父は雁金屋の二代目で、祖父・宗伯の妻は宗達の相方でもありマルチな才能を持つ総合芸術家でもあった本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の姉である。
そういう時代性と血縁関係から祖父の宗伯が光琳の崇拝する宗達へ絵などを注文した可能性もあり、まんざら無縁でもない環境が光琳にはあったらしい。

光琳は当時すでに「古画」であった宗達の遺品を捜し集め独自に技法・図案などを学習していく。

ここに「琳派」と呼ばれる不思議な系統が繋がっていった下地が生まれる。
琳派」には固定の師弟関係などなく、その画業に惚れこんだ後年の絵師たちが独自に研究しその画法を受け継いでいったといういわゆる既存の画壇とはまったく違う流れを汲むものたちという形で今の我々の前に現れたのである。

宗達が『風神雷神図屏風』を描いてから約80年後、光琳は見合うべくして宗達の『風神雷神図屏風』を目の当たりにし、その同じデザインの『風神雷神図屏風』を描く。

それは宗達のものと比較して、宗達画をトレースしたがごとくほぼ忠実な模写であることから、よほどじっくりとこの宗達画と向き合ったことが分かる。
しかし、単なる模写模倣に留まらず光琳が独自の解釈と表現を盛り込んだ精神が、光琳以降の「琳派」絵師と呼ばれるものたちの「琳派」たる理由ともなっている。

伝統の踏襲と新たな創造への挑戦。
これこそが「琳派」の魂なのだ。

くーーぅ!(惚れる…)

光琳の挑戦は宗達の模写に終わらず、『紅白梅図屏風』(国宝・MOA美術館)によってさらに続いていた。

天上の神々である「風神雷神」に呼応するように地上の「紅白梅の木」という形でその絵は昇華されている。

うう、今度はアメリカまでこの『紅白梅図屏風』を見に行かねばなるまい!
つか『風神雷神図屏風』と並べて見たいじゃんか!



さらに後年、今度は尾形光琳を師と信奉する姫路藩譜大名酒井家の次男坊・酒井抱一が江戸後期に登場する。
同じように放蕩息子とはいえ、抱一はなかなかの文人でもあり教養の深い御仁であった。
光琳と同様に30代後半に、衝撃を受けるほど運命的な出会いでもって抱一は光琳の作品と向き合う。

抱一はその後光琳が宗達の作品を回収しようとしたように、その豊富な財力で光琳の作品の回収と研究に邁進する。
それこそ死ぬ直前も光琳解説図本である『光琳百図』(後編)を版出するほどその情熱を傾けたのだ。

今現在我々が光琳を筆頭とする「江戸琳派」なる画業に触れられるのは江戸後期にこの姫路の放蕩息子抱一が情熱を傾けて研究してくれたお陰でもある。
ちなみに上方人の抱一がその活動拠点を京から江戸へ移したことが「江戸琳派」と呼ばれる所以になっている。
抱一が目を向けなければ、光琳も宗達もその系譜をもって現在この世界に残ってはいないかもしれないほど、光琳以後その画業は世間から忘れ去られていたのだ。

ありがとう!抱一!

光琳と宗達の間に無縁でない縁があったように、抱一と光琳にも似たような関係が存在した。
抱一の5代前の先祖である酒井家当主は一時的にあの光琳をお抱えの絵師として雇っていたのである。
抱一は寛政後期になりさらに遡って江戸初期の琳派の源流を求め宗達・光悦以降の作品も研究するが、やはり俄然彼の興味を引いたのは光琳の作品だったらしい。

しかし、この抱一は光琳の『風神雷神図屏風』に衝撃を受け模写しているが、そのオリジナルが宗達のそれとは知らないままであったようだ。

今と違い、美術品はそうそう庶民の前に現れるものではなく、家宝として門外不出となっている場合がほとんどであればいた仕方ないことである。
情報収集するのすら大変なことだったに違いないのだ。

我々が後に宗達のオリジナルを含め時空を超えたがごとく光琳・抱一と三つの「風神雷神図屏風」を同時に見ることができたこの機会も、昭和15年(1940年)以来すでに66年ぶりともあればそれがどれほど稀有なことか分かろうというものだ。

66年ぶりですよ!
前回は戦争中ですよ。
よく燃えなかったと神に感謝したい。

次が何時になるか分からないし、あったとしてももう自分はよぼよぼになっている可能性が高いのです。
ああ、見に行ってよかった…ううっ(感涙)。

細かいことはその三者三様の比較をこの展示会がこと専門的に研究しておられたので素人の私は何も言うまい。




ただ、この三つの絵を比較して眺めて、私が一番魅かれるのはやはり光琳図だということだった。

色彩の鮮やかさは一番新しい抱一のものであるのは間違いない。(もっとも新しいが故に平面的だと専門家の方にはちょっと格下の扱いのようだ)

また、オリジナル故の描線の自由奔放さ、画面から伝わる迫力は宗達のものに並ばない。

しかし、素人目にもいわゆるアレンジ力から来るデザイン性の秀逸さは光琳が筆頭だと思う。
日本画の線は以前は、ふわふわしていて捉えどころのない部分がどうも苦手だったのだが、こと光琳の視覚に訴えるデザインは丸いとか四角いではなくパッとダイレクトに脳に飛び込んでくる鮮烈さを持っている。

それは『紅白梅図屏風』でもそうだし、『燕子花図屏風』(カキツバタ図屏風)でもそうだ。

この「風神雷神図屏風」において抱一の評価はイマイチなのだが、抱一はこのような奔放で荒々しい図よりも繊細な草木花鳥図の方でその本領を発揮している。
光琳に影響を受けたであろう「燕子花図」も、模写に近い図案よりももっと自由に自分の感性にしたがって描いたであろう図案の方がより活き活きしているように見えた。
晩年の月次花鳥図である『十二ヶ月花鳥貼付屏風』は抱一の真骨頂と思われる。
繊細で計算されたデザイン構成に近代的写実性を加味した美しさは見ていて気持ちがいい。




風神雷神4

また、金地の屏風図ではないという理由でか、参考程度にしか展示されていない抱一の高弟・鈴木其一の襖絵四曲二双の『風神雷神図』東京富士美術館蔵(サンプル)があったが、模写からさらなる挑戦という意味では師の抱一を凌ぐ迫力を感じた。
あえて金地ではなく、白い襖絵にしたのは師・抱一への遠慮などではなく、水墨画の表現による雲雨風の表現を加味させたかったからなのではないかと私は思う。




また見にいかねばならんリストが増えたな…。(うきうき♪)




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