小さなお茶会 ~じるこん堂へようこそ~

匂いの迷路をひげの指すとおり進めば 少々思わぬことに出くわしても辿りつける…らしい。

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ロシアの女帝 エカテリーナ2世 ② 

1745年、花咲くロシアの夏に16歳で結婚したエカテリーナ2世







しかし、初夜を迎えるも、夫ピョートル(17歳)はベッドでお人形の兵隊ごっこをするばかりで、どきどきどきどきどきどきどきどきどきと緊張とそれなりの期待も含んでいたであろう乙女の心は虚しい絶望感と失望に囚われたと推察され、そういった夜を何日も何日も過ごしたというエピソードには
「うう、かわいそうに…(T T)」
と同情を誘われた方もいるだろう。

キライな男と寝るのもゴメンだが、まだ本心からキライでもない男から寝所で指一本も触れられないでいたら
「もしかして自分には女性としての魅力がないのだろうか…?」
と自己否定して哀しくなってしまったかもしれない。



このピョートル(3世)は教養が無く幼稚で(包茎だったとされる)、当時のロシアが戦争をしていた敵国プロシアの王フリードリヒ2世の大ファンでドイツ語ばかりをしゃべっていた(ロシア人なのになんで?)とか、宗教的にもルター派ロシア正教が大嫌いな方だったため周囲からも不人気だったと評判は散々だ。
もともと不安定な精神疾患か知的発達障害だった可能性も考えられる。

対して少女ゾフィーは生家が同じくルター派にも関わらず、嫁いだからにはとロシア正教へ改宗し(15歳の時)ロシア語も熱心に勉強したため、周囲からの印象はよかったようだ。
最も、夫となった男性から女として認められなかった哀しさを癒すために熱心に勉強へ情熱を傾けた一面もあったようだが。
哀しみや寂しさに溺れないでそれをエネルギーに変えていくことができる女だったのだ。



ロシア正教とは?
カトリックともプロテスタントとも異なる独自の発展を遂げ、今日のロシアを始めスラブ圏の人々にとってロシア正教は身近な信仰対象となっている。
ロシア正教はスラヴ民族の精神的支柱となっているのみならず、大国ロシアの文化を形成していく。

ロシア正教の歴史は?
時代は今からおよそ一千年前。
(*9世紀半ば~11世紀頃、日本では平安時代
この頃の日本では、新羅人が九州へ度々襲来していたり、遣唐使を出すのを辞めようかと思案してたり、菅原道真大宰府に流されたり、渤海使が来日してたり、呉越国特礼使から言上書を貰ったり、の商人が来日したり、高麗使が来日したりとそれなりに諸外国と行き来していた時代)

                     
その日本からはるか西側では、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープル(現在のトルコイスタンブール)は世界の文化的中心の一つとして栄えていた。

861年 聖キリロス(827-869)と聖メトディオス(815-885)兄弟が、ブルガリアをはじめとしてスラヴ世界への布教活動を展開中。

864年 ブルガリア王ボリス、洗礼を受ける。

870年 ブルガリア教会をコンスタンティノープルの支配下に置く。

988年 キエフを中心にロシアの国家的統一を成し遂げたウラジーミル1世(978-1015)は、ブルガル人のイスラム教、ドイツ人のローマ・カトリック教の信仰の実態を調査させるためにキエフ・ルーシの使節を派遣する。
その際ツァーリグラード(*コンスタンティノープル→今のイスタンブール)に赴いてその地の壮麗なハギヤ・ソフィア大寺院とそこで繰り広げられる荘厳なビザンチン典礼の美しさに

「感動(ウミレーニエ)!」

する。
その感動が、キエフ・ルーシの人々にギリシア正教の信仰を薦めることに決定。
ウラジーミル1世はギリシア正教を国教として取り入れることとし、その手始めにドニエプル河で民衆を半ば強制的に集団洗礼させる。
そうして「東方キリスト教(ギリシア正教)」を国教に採用し、東ローマ(ビザンチン)帝国に範を求めたのがロシア正教の始まりといわれている。

このギリシア正教の受容は、その後のロシアの社会、文化、政治的発展において多大な影響を与える。
東方キリスト教の教義の導入を通じてギリシア文字(教会スラヴ語で使用されるキリール文字)をはじめ、文学、美術、建築などといったあらゆる文明形式がロシアに入り、その結果ロシアはビザンチン文明圏に属することになっていく。

ルーシとは?
古代ロシアのこと。
988年以前のルーシ(古代ロシア)の宗教は雷神ペルーン太陽神ダージボーグなど自然神崇拝の土着の神を敬う宗教だった。
しかし、キエフの支配者の権力を権威づけるにはキリストを主と仰ぐ強力な一神教が政治的にも好都合だったとされる。
こうして、それまで街にあったペルーンの偶像は倒され、正教独特のねぎ坊主の教会がルーシ全土に建立されることになった。
ロシア正教十字架

★【ロシア正教の世界】より



ロシアってギリシャトルコとも文化的に近いのね。
でもなんだか民衆気質は正反対のような気もするけど。
気候の差かなぁ。

基本的に同じキリスト教なのにルター派ロシア正教の持つ雰囲気がこれまた大きく違うのだろう。
(個人的にはキリスト教よりも、キエフ・ルーシのこの土着の宗教神である、雷神ペルーンとか太陽神ダージボーグとかの方にとっても興味あるんだけど)

雷神ペルーンとは?
ペルーン(雷神)は、東スラブの神々のうちで最も重要な神。
その語源には、per-(打つ)と、行為者を表す-unの組み合わせ、=「(雷で)打つ者」とする説と、を意味するラテン語quercnsに由来するとする説がある。
雷神ペルーンのイメージは、東および南スラブでは予言者聖エリアのに受け継がれ、南スラブにはペルーンの名を冠した地名が多く残されている。
★【ペルーンについて】 

太陽神ダージボーグとは?
自然神信仰神のひとつ。
国教をキリスト教に強制したものの、それまでの土着の信仰もそう簡単には消えなかったようで、ずいぶん長い間この二種類の宗教の同時信仰の状態は続いたようである。
★【忘れられた神々】より


また、ロシア正教は1917年の革命までロシアの国教とされていたが、ソ連時代に多くの教会が破壊され司祭たちは射殺、投獄されたりした。
(共産主義のこういうところがキライなのよ…)
改めてロシア正教が公式に支援されることになったのは1992年以降になってから。

(閑話休題)








さて、お人形遊びで夜を明けた虚しい初夜の後、周囲はピョートルではなくゾフィーに「情事の訓練」と称してベッドでのテクニックを宮廷公認の情夫に「指導」させることにし、それはそれで彼女は女としての快楽を知ったからよかったけれども妊娠までしてその情夫とは離れさせられるわ、結局夫とは8年間もセックスレスのままだった(16歳から24歳までってことです)わで

「そりゃあ、愛人の一人や二人作りたくもなるわな…」( ゚Д゚)y─~~~

とひっそりと共感した方もいるのではないだろうか。




エカテリーナが初めてをし、肉体関係をもったのは侍従の1人であるセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵というお方。
何年間関係が続いたか不明だが出産が24~25歳の頃だから、彼女が恋をしたのがその頃だということで、16歳で結婚してるのに恋愛らしきものを体験したのが24~25歳ということなのね。(涙)

しかしセルゲイはそこは大人?なのか、結婚後もピョートルが童貞という公然の秘密のため、エカテリーナ2世が妊娠したら、愛人である自らに当然嫌疑がかかってくるだろうと警戒した。
わざわざエリザヴェータに奏上してピョートルに包茎手術や“熟練した夫人による治療”(これがいわゆる高級娼婦ってことかしら?)を受けさせるとか裏工作に腐心したようだ。
愛人にしては中々したたかな男だ。
エカテリーナはこの頃セルゲイの子を宿していたが、哀しいかな流産している。(もしかしてわざと流産に至ったのかもしれない)

しかしエリザヴェータは、ピョートルの男としての無能を知っていたのか、国家のためにセルゲイとエカテリーナ2世の関係を黙認する、というか奨励すらしたようだ。
(後継者問題が国家を左右することを知っている女帝らしい考えだ)

9月20日(*)、たてまえはピョートルの子、
実はセルゲイの子のパーヴェル(後のパーヴェル1世)が生まれる。


---エカテリーナの『回想録』から


パーヴェル1世
1754年10月1日(*)~1801年3月23日(享年46歳)*日付はどっちだ!?
ロマノフ王朝第9代ロシア皇帝(インペラートル)(在位1796年 - 1801年)。
父はピョートル3世。(ということになっているがセルゲイ説有力)
母はエカテリーナ2世
ホルシュタイン公を兼ねていたが、1773年デンマークに返還した。

妻1 : ナタリヤ・アレクセーエヴナ -1776
(ヘッセン=ダルムシュタット方伯女ヴィルヘルミーネ)
1776 男(死産)

妻2 : マリーヤ・フョードロヴナ
  (父:ヴュルテンベルク公フリードリヒ・オイゲン)
1777-1825 アレクサンドル1世
1779-1831 コンスタンチン
1783-1801 アレクサンドラ・パヴロヴナ
1784-1803 エレーナ
1786-1859 マリーヤ
1788-1819 エカチェリーナ
1792-1795 オリガ
1795-1865 アンナ
1796-1855 ニコライ1世
1798-1849 ミハイル

(…子沢山だったのね)

母エカテリーナ2世の崩御を受けてロシア皇帝に即位する。
母帝との確執からエカテリーナの政治を全否定する政治路線を採り、次第に廷臣の離反を生み、47歳の時ついには1801年3月23日(*)クーデターによって暗殺される。

by「 goo Wikipedia」より


生んだ子供に仕事を全否定された母親ってのも切ないなぁ。
偉大な母に反発した息子かぁ。
まぁ、ピョートルが本当の父ではないと知らないだろうし、自分の父を母がクーデターで追い詰めたと思っているだろうから仕方ないのかもしれないが…。

1754年、エカテリーナは初の出産後に子供を取り上げられ、息子パーヴェルはエリザヴェータによってロシア帝国の世継ぎとして育てられることになった。
(エカテリーナ2世:25歳)




子供と離れさせられた淋しさをまぎらわす為か、彼女はさらに勉強に励む。(この辺りがさすが後に女帝となる女のど根性だ)
タキトゥスの『年代記』を熟読し、モンテスキュー(1689~1755:フランスの思想家。その三権分立論はアメリカの独立やフランス革命に大きな影響力を与えた)やヴォルテール(1694~1778:フランスの小説家、劇作家、思想家。信教と言論の自由を求める合理主義の啓蒙思想家として活躍。痛烈な風刺と簡潔な名文が有名)などと文通するようになるのはこの後のことだ。



25歳なんて女ざかりを愛で満たされなかった彼女は、乗馬や狩りでウップンを晴らすために嗜んだりしたが、それだけでは心が晴れなかったようだ。

その頃愛人としてのお相手に、イギリスの政治的な計略によりエカテリーナに近づけられたポーランド名家の美青年スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ伯爵というのがいる。
そういえば、エカテリーナの出身地ポメラニアシュテッテンというのは現在のドイツとポーランドに跨る地域なので、このポーランド出身の美青年伯爵とはそれなりに親近感から親しめたのかもしれない。(…なんてことまで考えてポーランド青年を担ぎ出してきたのかイギリス!)

1757年に彼との娘が生まれているので、エカテリーナ27~28歳頃のお相手だろうか。
その娘も2歳で亡くなっている。
計略とはいえ、美青年とつかのま恋愛している間はそれなりに幸せだったのかもしれない。
この美青年は後にエカテリーナの意によってポーランド国王となっている。





しかし、エカテリーナの在位中にそのポーランドは周辺国に分割されポーランド王国は消滅している…って政治的な罠に嵌められそうになったことに対する怨み仕返し、じゃないでしょうね…。
女にとっては恋愛の恨みもこわいんだよー。





一方ピョートルはエカテリーナに対する劣等感からか、副宰相ミハイル・ヴォロンツォーフの姪エリザベータ・ヴォロンツォーヴァという無教養で醜悪な女性に強く惹かれるようになったんだとか。

「お前の夫はお前になど興味はない。
この女は醜悪で無知だ。
だがお前よりずっとずっとずーーーっとイイ女だもんね!」


と誇示したかったのかもしれない。
この後のピョートルの行動を見ていると、妻エカテリーナをいかに凄まじく憎んでいたかが感じられる。

元ドイツ人でルター派を信仰していた同じ境遇から始めはドイツ語を話せる相手として親しんだであろう彼は、時が経てば経つほどこのロシアで自分より深く馴染み、自分よりも周囲から信頼され愛されていくエカテリーナが疎ましくなっていったのかもしれない。
夫婦ということで自分と常に比べて見られることでも、感情がますます捻くれていったのか。

ピョートルは当て馬のようにこの醜女の愛人エリザベータ・ヴォロンツォーヴァの一族に強大な利権を渡して優遇していた。



その後、美青年ポニャトフスキ伯爵は政情の変化からロシアを追放され、エカテリーナも計略による政治的失脚の危機を免れる。





しかし、三十路を迎えても尚愛に飢える女、エカテリーナ2世。
確かにその恋愛に賭ける情熱は人よりも豊富だったかもしれない。

1759年、エカテリーナ30歳の時。
彼女はオルローフ家の次男グリゴリー(*グリゴーリーとかグレゴリイとか日本語表記はいろいろ)と出会う。
新たなる出会い、新たなる愛人の登場!がエカテリーナの人生をさらに変えていく。

イヴァン、グリゴリー、アレクセイ、フョードル、ウラジーミルら、オルローフ家との交流は後に起こるクーデターの下地となっていく。
特にグリゴリーは近衛仕官ということもあり、近衛連隊(軍隊)に多大な影響力を持っていた。


愛人だけでなく、友となり政治的にも知的ブレーンとなる婦人(15歳違いの少女)との出会いもこの後のクーデターで彼女を助けることとなる。
というかエカテリーナにクーデターを強く薦めたのはこの↓年若いご婦人だったようだ。
科学アカデミーを活性化させた近衛士官ダーシュコフ公爵の新妻で、芸術や文学、哲学をよくする才媛!エカテリーナ・ダーシュコヴァ夫人
(1744年3月17日生まれ。エカテリーナ2世より15歳も年若)
当時はまだ18、19歳で10代だった少女が30代の女にクーデターを薦めたというのは驚きだ。
彼女は後にその才覚を買われてエカテリーナ付きの女官長になる。



おおー、権力の影で黒子として働く女史とは、これもかっこいい~。
(容姿はどちらかというと………だったようだが)
個人的にはこういうの黒子役が好きです♪
しかし、どちらも名前は「エカテリーナ」で紛らわしいな。

後年、ポチョムキンとの恋文のやりとりや生まれた娘をひそかに手放した時など、エカテリーナ2世の支えになって働いたのは彼女なのだろう。

獣のような荒くれ者の近衛仕官グリゴリーとも知的な才媛ダーシュコヴァ夫人とも付き合えるエカテリーナの柔軟な趣味の広さが閉鎖的な夫ピョートルとの人徳の差となっていったのかもしれない。




彼女が歴史的に評価されている部分もあるのは、権力に自分が振り回されていただけではなく、自らその地位に相応しい人物たろうと相当の努力をしてきた結果があるからだろう。






そういえば、ピョートルは何故ロシア人なのにドイツびいきだったのだろう?

ピョートルの母も、伯母のエリザヴェータもともにロシア人だ。
ピョートル大帝(1世:サンクトペテルブルグを造った皇帝)とエカテリーナ1世との間に生まれたエリザヴェータの姉のアンナ・ペトローヴナドイツのホルシュタイン・ゴットルプ家へ嫁いでいたが、息子を産んだ後亡くなる。
エリザヴェータ自身にも心に思う殿方がいたらしいが、これも若くして亡くなったため生涯独身を通したとかで、少なくとも公式な嫡出児はいないまま、姉の子供であるカール・ペーター・ウルリッヒ(これが甥っ子のピョートルだ)をロシア帝国の後継者として据えることにした。
多分他に血縁にあたる後継者がいなかったのだろう。

しかし生前のピョートル大帝(1世)の方は自分の息子アレクセイを後継者にと考え、娘たちはドイツに嫁がせそのままドイツの貴族として生きるよう指示していたらしい。
なので甥っ子カールはドイツ人として教育されている。
当然本人も無邪気に自分はドイツ人だと思って生きていた

そこへアレクセイの突然の死、当のピョートル大帝が正式に後継者を指定しないまま死亡する。
女帝となったエリザヴェータは、自身の子供がいなかったため宮廷に起こるであろう後継者争いを見越して、姉の息子だったカール・ペーター・ウルリッヒを後継者として育てるべくドイツ(当時のプロシア)からロシアに呼び戻したのだ。

そういった状態で、カール少年本人にとっては半ば強制的にドイツ人であることを否定され、ルター派からロシア正教への改宗、名前もカールからピョートル・フョードロヴィッチと変えられロシアへ連れてこられたのが1742年、14歳の時のことだった。(ゾフィー少女この時13歳。まだドイツにいる)

いきなりピョートルと呼ばれるようになったカール少年がロシア語よりドイツ語の方が上手く、ドイツに対する郷愁が非常に強い少年だったのは仕方のないことだったようだ。
そのせいで情緒不安定になったのかどうかは定かではないが。




ドイツ出身の貴族の娘を妃にとエリザヴェータが取り計らったのは、そういった甥っ子への配慮もあったようだ。

しかし同じような境遇であったにも関わらず、強制されたことに対して不満を持っていたであろう。
ピョートルはロシア語をろくに勉強することもせず、ドイツでの生活を忘れられずドイツに執着し、ロシアに馴染もうともしなかった。
対して、ゾフィーは必死でロシア語や歴史を学び、周囲に溶け込もうと努力し、エリザヴェータに気に入られて可愛がられ、ついには周囲の信頼を勝ち得たのだ。
エカテリーナ2世となったゾフィーにとって、チャランポランな夫以上に夫の伯母であるエリザヴェータは心強い存在だったと思われる。
まして、夫は妻である自分を敵視していたのだから。




しかし…。
結婚してから16年目の冬。




1761年12月。
オーストリア辺りで発生していた領地獲得合戦である7年戦争の真っ最中に長い間病気がちであった女帝の容態が悪化、エリザヴェータ・ペトロ-ヴナ12月25日午後、逝去。
(エカテリーナ2世:32歳の時)






その後を継いだのが女帝の甥っ子・ピョートルだ。

しかし、1762年に皇帝としてピョートル3世となった夫(34歳)は政治には無能過ぎただけでなく、強大な権力を手に入れたことで、妻であるエカテリーナ2世にとって最も危険な人物となっていく。



歴史雑感 *  TB: 0  *  CM: 2  * top △ 

この記事に対するコメント

エカテリーナって

なんだかマリー・アントワネットと似てますね、
結婚してからの境遇というか、ダンナさんが
ナニで結婚当初にナニできなかった、という
くだりとか。。。

大学受験で日本史を選択したので、
あまり詳しく世界史を勉強していなくて、
フランス革命すら「ベルばら」で学んだ(つもりになっている)んですが、今日はこちらのブログでロシアについてたくさん
教えて頂きましたv-238
続きが楽しみです!!
【2006/11/09 09:09】
URL | はてるま #- *編集*

世界史

☆はてるま様、まいど~。
いえ私も世界史は苦手で…(^ ^;)
どうもあの横文字が頭に入ってこないのですよ。
でも、歴史の流れを知るのは大好き!
(暗記はからっきしダメですが)
こうしていろいろな情報に触れて様々な世界を
感じられるってのがネットの素晴らしい!
ところだと思います。

あとメモやノートで紙だらけにならないところ~。
素晴らしい…v-195
【2006/11/09 17:47】
URL | こるち #- *編集*

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