小さなお茶会 ~じるこん堂へようこそ~

匂いの迷路をひげの指すとおり進めば 少々思わぬことに出くわしても辿りつける…らしい。

07« 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31.»09

このページの記事一覧

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 *  TB: --  *  CM: --  * top △ 

ロシアの女帝 エカテリーナ2世 ③ 

ロシアの冬真っ盛りのクリスマスの日。
1761年12月25日午後、女帝エリザヴェータ逝去。(享年53歳)

エカテリーナ2世、32歳の冬。





大公ピョートルは慣例に則って「皇帝ピョートル3世」となった。
ピョートル3世は相変わらずのプロイセンびいきで、まだ敵国のフリードリッヒ2世に対する尊敬を隠そうともせずにはしゃいでいた。
周囲が不安に思うのもよく分かる。
「大丈夫か、こいつで…」
と誰もが考えたようだ。

前女帝の逝去した12月が暮れ、ピョートル3世は年が明けるとともに不条理な勅令を出し、周囲から早速総スカンをくらっていた。
ロシア正教大嫌いな彼は教会財産の没収を行ったり、軍隊や官庁でプロイセン式の規律を強制たり、貴族の解放令(*)を出したりしている。

貴族解放令とは?
「貴族達は今後も国家に勤務することが望ましいが、強制はしない」という法。
ピョートル大帝(1世)の定めた勤務義務がただの苦役でしかない中小貴族からは歓迎され、多くの貴族が故郷に帰っていった。


江戸時代の参勤交代みたいなものをゆるーくしたのだ。
これは貧乏貴族たちからは歓迎されたが、宮廷からは不評だったと思われる。
ルター派の彼にしてみれば、無駄に贅沢をする宮廷にも教会にも反発があったかもしれない。
この解放令によって首都勤務から解放された貴族の多くが地方領地に関心を向けたことや、西欧の自然崇拝の思潮の影響とが重なって庭園芸術への関心が強まり発展したので、まんざら悪政だけの皇帝でもなかったようだ。





しかし、今までボンクラ夫と蔑まれていたことの恨みは相当深かった…。





1762年2月21日、自分の誕生日を祝う祭典に臨んだピョートルは、妻に対して聖エカテリーナ勲章(*)を醜女の愛人エリザベータ・ヴォロンツォーヴァに渡すよう命じる。
(*この勲章は皇后と皇位継承者の妻だけに与えられる大変名誉のあるもの)

公然と正妻エカテリーナを退け、愛人エリザベータを新しい皇后に迎えるという意図を示したのだ。



うわぁ~、ボンクラ夫の逆襲である。
もうバカにハサミ状態ですか?



しかしその時近衛仕官グリゴリーの子供を妊娠していたエカテリーナ。
このような状況で妊娠を悟られたら何をされるか分かったものではない。
エカテリーナはこの時はおとなしく黙としてその命に従い、それが周囲の人々の共感を呼んだりする。
夫はそれもまた大いに気に入らなかった。



1762年4月22日、エカテリーナは召使い達に助けられこっそりと愛人の子供アレクセイ(*)を出産。
(*彼は後にロシア最大の名門家となるボーブリンスキー家の始祖となる)
これでやっと思うように動く態勢が取れる。

ピョートル3世は、その後も頭が良く人気もある彼女をシュリュッセルブルクの城砦に幽閉しようとペテルゴーフの離宮に移るように命じる。
エカテリーナの立場はどんどん追い詰められていった。



しかし、クーデターの直接の引き金になったのは、ピョートル3世が即位後すぐに戦争中だったプロイセンからロシア軍を撤退させ、そのロシアの獲得した全占領地をプロイセンに返還させたことだろう。
戦争していた当の軍からしたら、どれだけ憤慨したか想像に難くない。
1762年4月24日、戦争中の敵国プロセインのフリードリッヒ2世と和平を結び、共同してオーストリアと戦端を開くことまで約束している。(プロセインびいきにもほどがある…)

7年戦争でフランス・オーストリア・ロシアの三カ国を同時に敵に回していたプロイセン側(ドイツ)にとってこれは思いがけない幸運となった。
この頃のドイツはそれほど広い領地もなく、オーストリアやポーランド王国の方が国土は大きい。
プロセイン側はこの戦況を「奇跡」と呼んでいるが、まさか戦争相手のロシアの皇帝がプロセインびいきとは思うまいよ…。










このピョートル3世の独断はもしかして、少年時代の自分に苦しい異国での生活を強いたロシアという国に対する復讐だったかもしれない。












が、当然ロシア軍部の激しい反発を招く…。

「こいつに任せていたら国がそのままプロセインに乗っ取られる」

そう危惧した者は多かっただろう。

エカテリーナにこのクーデターの決起を強く求めたのは、年若い才媛の友人ダーシュコヴァ夫人(当時まだ18歳)だったらしい。
彼女は少女時代から宮廷参内を許される地位にいた。
ピョートルの寵愛した愛人エリザベータ・ヴォロンツォーヴァは宰相の姪だが、その愛人には同じように容姿に難ありの妹がいた。
その妹がこの後エカテリーナに最も近しい友人となるダーシュコヴァ夫人(*ダーシュコフ夫人の記述もあり)である。
容姿は姉妹そろって難ありだが、この妹はその容姿の不細工さをもって補うほどの魅力があったようだ。

1770年 ダーシュコヴァ夫人、プロイセン王国のフリードリヒ2世と会見したり、保養地の温泉で療養中、イギリス・スコットランドのモーガン夫人、ハミルトン夫人と交友を持ちはじめた時期のこと。
大陸から渡英しロンドン、バース、ブリストル、を経てオックスフォードに赴き、オックスフォード大学ブリタニカ大事典を閲覧し羨望し、その年の11月大陸に戻り、パリでドニ・ディドロと会った時。

ディドロによれば、

「ダーシュコワ夫人は全く美人ではない」

当時27歳の彼女が40歳くらいに見えた


と容貌については、辛辣に語っている。
しかし

話すときは率直で、力強く、説得力がある。

正義を重んじ、尊厳を尊ぶ。
芸術を理解し、人間をよく理解し、祖国の窮状を知り、圧制とあらゆる暴虐を強く憎む


と彼女の内面を絶賛している。


よほど人柄に光るものを持っていたのだろう。


ともかくそういう関係で幼少から当時皇太子妃のエカテリーナとも出会うのであった。
もともと男勝りな「変わり者」でもあった少女はその後エカテリーナ2世に気に入られたのか才媛同士気が合ったのか、愛人一族のひとりであるにも関わらずこの15歳年下のこの夫人と政治や文学、芸術について活発に議論を交わす知己の仲となっていたのだった。

少女が16歳を迎える前に結婚した相手は、もともとオラニエンバウム(現ロモノーソフ)にあった皇太子夫妻の別荘の警護を担当していた近衛士官でリューリック朝以来の伝統を誇る名門貴族、ミハイル・ダーシュコフ公爵だ。

その頃に、エカテリーナ寄りの宰相ベストゥージェフ・リューミン伯爵が政治的陰謀により失脚、女帝エリザヴェータの崩御とピョートル3世の即位に前後して、愛人エリザベータの実家の叔父ミハイル・ヴォロンツォフが宰相に就任する。

ピョートル3世の愛人エリザヴェータ・ヴォロンツォーヴァは女官長となり、宮廷でもエカテリーナ2世とその一派を凌駕するのどの勢いとなった。
一門あげてピョートル3世支持派となった実家ヴォロンツォフ家の中にあって、ただ一人そのダーシュコヴァ夫人だけがエカテリーナ2世に忠誠を誓う「変わり者」だったのだ。


…してみれば、ピョートルの愛人がこの醜女エリザベータ・ヴォロンツォーヴァでなければ、その妹のダーシュコヴァ夫人がエカテリーナにクーデターを薦めるほどの友人となっていなかったかもしれない。
人の縁に運命の不思議さを感じる。
夫がダメンズだったからこそ、エカテリーナは自分でロシアの皇帝として君臨することになったのだ。



ダーシュコヴァ夫人は同志を募り、青年将校の中心であったオルローフ家の兄弟を取り込むべく積極的に活動している。(舞踏会などで待ち伏せしてこんこんと説教説得したりしていたらしい)
尤もその時妊娠を悟られたくなかったエカテリーナは、出産し子供に安全が確認されるまではとじっと時期を選んでしおらしくしていたのだった。

しかし。

1762年6月27日、宮廷革命の計画を練っていた同志の1人パセク大尉が逮捕される。
同志の口から秘密が漏れるのを恐れたグリゴーリー、エカテリーナ、ダーシュコヴァ夫人らはすばやく決起を決定する。
クーデターのために迎えの使者アレクセイ・オルローフがペテルゴーフの離宮に到着したのは、翌日6月28日の未明であるからどれだけ緊迫していたか分かる。






それから約2週間後。

1762年7月10日、2万人の軍を率いてエカテリーナ2世自らが男装の軍服で指揮を執り、クーデター敢行。
オルローフ兄弟やダーシコヴァ夫人らの尽力で主要な軍隊・反ピョートル派の貴族はエカテリーナ側に付き、ピョートル側についた重臣達も多くが咎めなく帰参を許されたこともあり、クーデターはほぼ無血で成功した。
デンマーク地方への外遊先でその報告を受けたピョートル3世は震え上がったと言う。
そして「自発的退位の署名」を促されて本人も納得(させられた)状態でクーデターは終結する。









最近こんな似たような感じのクーデターがあったなぁ…。
★【タイクーデターについて】by 「SANKEIWeb・ニュース特集」より

タイの政権奪取もタクシン首相がアメリカへ外遊中に陸軍大将が指揮してあっという間の無血クーデターが成功しているこの実例。

「現代でそんなこと許されない」

みたいな世論も見かけたが、当のタイでは夜間外出禁止令も出ないくらいほとんどそのまま平常生活が続いていたようだし、概ね市民に受け入れられていたようだった。(タイ在住の知人談)
個人的にもタクシン首相のやり方は好きではなかったのと、結果として大事に至らなかったのとで、私は「いいんじゃないの?」と思った支持派である。
ちなみにこのクーデターを指揮した陸軍大将(ソンティ陸軍司令官)はイスラム教徒であるが、仏教国タイにおいても王様支持派で強面だが部下の信頼厚い仁義のお人だったことが、周囲の理解支持を多く受けた理由だと推察している。

これが、イスラム教徒による政権奪取とか国教の転換を図る…という主旨のクーデターであればこうもすんなりと受け入れられなかっただろう。

このあたりの雰囲気は当時のクーデターと似ているかも?と想像の世界と現実世界を比較してみたりすると面白い。











そのクーデター時に指揮をとった時のエカテリーナ2世を描いた絵がある。
エカテリーナ2世・クーデター時

軍服を纏い白い馬に跨った彼女は、勇ましく美しい。
巴御前静御前やら、馬を駆って軍を指揮する女性ってだけでカッコイイよなーと思ってしまうよ。



ロシア皇帝ピョートル3世(夫)はそうしてわずか半年で退位、9月にはエカテリーナ自身が女帝(33歳)として即位する。
ロシア・ロマノフ王朝第8代皇帝の誕生である。
夫のピョートル3世は、クーデターから10日後には当時女帝の側近となっていた青年将校アレクセイ・オルローフによって殺されたらしい。
その後のことを考えた側近の独断だったとも言われているが後々までエカテリーナ2世について回る忌まわしいイメージとなってしまった。
公式には、

「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、エカテリーナ2世はこれを深く悼む」

と発表し、エカテリーナ2世自身の関与を否定しているが…。
「持病のが悪化して」って…そんな理由、暗殺よりしどいと思ふ…(T T)哀れな。

後にこのピョートル3世と名乗る者が何度か地方で反乱を起こしたという事件もあるが、この時はあっという間に軍を投入して処刑している。
もしかして、「死んだことにしておくから、地方でひっそり生きて」と逃がしてやったていた?
そして、やはり反乱を起こしてきて今度こそ息の根を止められた?
むむ、このあたりは想像です。









1765年(36歳)、クーデターから3年、国政が落ち着いてきた頃。
エカテリーナ2世は宮殿の隣にエルミタージュ(=隠れ家)という名の美術館を建設する。
エカテリーナが自分のコレクションで美しい空間を自分の心を休めるために造らせたという、極めて個人的な建物だ。
サンクトペテルブルクにあるこのエルミタージュ美術館は、女帝エカテリーナ2世の宮廷博物館として、現在250万点に及ぶ貴重なコレクションで世界的に知られる有名な美術館となっている。

18世紀のヨーロッパとロシアは華やかで贅沢な貴族文化の最盛期にあり、各国の君主は当時一流の学者や芸術家を集めたサロンを開設したり、莫大な財産を投じて歴史的価値のある芸術品や工芸品、貴金属のプライベートなコレクションを充実させていた。

豪華絢爛なバロック様式から精細優雅なロココ様式への移行期にあって、絵画・彫刻・建設が絢爛豪華の精髄を極め尽くしていた時代でもある。

ルネサンス(文芸復興)の風潮に倣う新古典主義(18世紀以降~)と呼ばれるような伝統回帰の芸術思潮も生まれ、躍動的な生命力に満ちた古代ギリシアやローマの力強い作風の芸術作品が再評価される気運も生じた。


ソ連時代に廃れかけていたらしいが、その後20年ほどかけて宮殿の修復をしてそれはそれは建物そのものが芸術品と思われるほどに復元されている。
一度行ってゆっくり観たい美術館だ。





「この美術館に入る者は真実のことばしか発してはいけない」

強大な権力を持ち常におべんちゃらを言われ続けることが、時に苦痛だったかもしれない。
ここへ入ることが許された者は身分や思想信条の区別なく接することが求められた。(とはいえ入室が許可されるのは特権階級のみだが)

贅の限りを尽くした豪壮な宮殿を建設し、世界中から名だたる高価な美術品や稀少な大型の宝石(貴金属)、優雅で繊細な陶磁器(セーブル窯・ウェッジウッド窯)などを蒐集し続ける。
絶大な権力と財力で世界各国の芸術品や貴金属、工芸品を金に糸目をつけずに収集し、冬宮を拡張した現在のエルミタージュ国立美術館の基礎が出来上がる。

エルミタージュ美術館
冬宮
小エルミタージュ
旧エルミタージュ
エルミタージュ劇場
新エルミタージュ

★【エルミタージュ美術館写真特集・美術館の歴史と特徴】 エルミタージュ美術館は上記5つの豪壮で雄大な建築物群から成り立っている。(新エルミタージュはエカテリーナ2世とは無関係に彼女の死後にドイツ人建築士の手により建設されたものだそうだ)
皇帝一族の私邸であり特権階級だけに閲覧が許された美術品の展示室であったエルミタージュが、公共建築の芸術館として一般公開され始めるのもエカテリーナの死後の1852年頃から。





もちろん国力を上げるための勢力拡大の政策も続く。

1768年12月29日、トルコ戦争が始る。(39歳)

1772年(43歳)、第一回ポーランド分割に参加。(プロシアオーストリアと共謀)

1773年 プガチョフの反乱(1773~1775年)(44歳)
コサック地方の農民が起こした特に大きな反乱で、捉えられた首謀者は各地で晒し者にされた上で処刑されている。

やがてポーランドをプロイセンとオーストリアで分割し、クリミア汗国を併合し、一年中凍らない港、地中海への出口を獲得。
ピョートル大帝が作り上げたロシア帝国を継承、領土拡大し、専制支配体制を確実なものとしてロシアをヨーロッパの強国の一つにしていく。

★参考までに。→【現在のロシア周辺国地図





番組では詳しくは紹介されていなかったが、その後女帝となった彼女は夜明けとともに起き、氷で顔をごしごし洗い(これは美顔のためだったとか)、きっつーい珈琲をぐっと飲み干して目を覚まし、粗食でバリバリ公務をこなし、夜はオペラや舞台の観劇も途中退席し、基本的に夜は10時には就寝、というけっこう地味な生活を送っていたようだ。(さすが勤勉なドイツ人…)

手紙が唯一の情報通信手段だったせいもあろうが、ヴォルテールモンテスキューなどにもせっせと手紙を書いて文通していたせいか「啓蒙専制君主」と謳われているらしい。
ドイツ人のロシア女帝がフランス人と文通。
本当に賢いお人だったのね、と外国語オンチの私はそれだけで感心しきり。
もっとも、彼女はフランスの国は嫌いだったが、フランスの思想や芸術などは大好きだったようだ。(オンナだなぁ)
彼らと文通すること(彼らの活動を支援しているパトロンでもあった)は、単なる友達付き合いだけではなく、ロシアという当時成り上がったばかりの新興国、まだ辺境の野蛮な国というイメージをヨーロッパと同等の文明国であるとイメージアップするためにも役立った。






そんな生活で唯一エカテリーナ2世が欲に没頭したのが、愛人との情事だったという。
ええやん、ここまで頑張ってるんだからセックスくらい。
尤も、愛人と別れる度に相当の土地や権力を与えていたらしいので、愛人候補はいくらでも寄ってきたらしい。
これが愛人200人を侍らせていた淫乱女帝…という噂のもとなのだが、実際には20人ほどだったようだ。

しかし、賢く信念の強い女帝が浮かれるようなをするのに相応の男性はそんなにはいない。
多分、体で満足しても心まで痺れるような殿方には数多い愛人の中でもなかなかいなかったのではないだろうか。
いても思想の差で冷めたりしたのかもしれない。











そうして1774年、女帝45歳の時。
心からときめいた殿方が、10歳年下で後のクリミア総統となったエカテリーナ2世随一の家臣、黒い瞳のポチョムキン(タヴリチェスキー公爵)なのだ。



歴史雑感 *  TB: 1  *  CM: 2  * top △ 

この記事に対するコメント

今日の記事も

興味深く拝見しました・・・

痔が悪化して亡くなった皇帝に
愛人が20人もいる女帝。
ローマ時代の話?と思いきや、これが200年ほど前に
実際に起こっていた話なんですよね。

こるちさんの詳細な記事を読んでいると、
なぜか1年ほど前から読みかけて、途中で挫折している
「カラマーゾフの兄弟」を読まなきゃ!という気持ちになってきました(笑)


【2006/11/10 17:13】
URL | はてるま #- *編集*

カラマーゾフの兄弟

☆はてるま様、まいど~。
ロシアの歴史ってよく知らないので、ちょっとかじってみよっと思いほとんどメモのつもりだったのでそのよう思って頂いて恐縮です。
そんなに掘り下げるつもりなく広げ、収集付かなくて困っております…w。うーん、うーん。

ロシア文学ってまったく読んだことがないんですが、深みにはまりそうな内容ですね(^ ^;)。>『カラマーゾフの兄弟』
あらすじだけで、さすが冬将軍の国って感じです。
こ、これ読んだら読書持久力とか付くかしら…?


【2006/11/13 17:44】
URL | こるち #- *編集*

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL
→http://ilovemannga05.blog39.fc2.com/tb.php/133-93e61574
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

-

管理人の承認後に表示されます【2014/07/02 21:11】
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。