小さなお茶会 ~じるこん堂へようこそ~

匂いの迷路をひげの指すとおり進めば 少々思わぬことに出くわしても辿りつける…らしい。

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ロシアの女帝 エカテリーナ2世 ④ 

ポチョムキンと出会ってからの女帝の恋物語は番組(*)でより詳しくクローズアップしてあったので記憶に残っている方も多いでしょう。
★【ロシア エルミタージュ美術館】参照~。

(*ダイワハウススペシャル 
山口智子「女帝エカテリーナ 愛のエルミタージュ」by日テレ 10月24日(火)夜9時放送)

イタリア人ラストレッリによって立てられた冬宮。(1762年に完成)
フランス人ヴァラン・ド・ラ・モットにより増築された別館。
エカテリーナ2世は冬宮に移り住み、1765年に別館を造り始める。(女帝:36歳)
それが小エルミタージュである。
その別館は集めた美術コレクションの展示館になり、現在、世界三代美術館の一つになるエルミタージュ美術館の始まりであった。






さて、愛人200人超え改め20余人だったという女帝エカテリーナ2世の一番有名で長続きした愛人が、後にクリミア総督となった英雄ポチョムキン
その「ポチョムキン」という響きから連想するものは、あのロシア映画「戦艦ポチョムキン」↓の方が有名かも。

戦艦ポチョムキン 戦艦ポチョムキン
アレクサンドル・アントーノフ (2003/06/20)
アイ・ヴィー・シー

*詳細を見る

1925年に公開されたセルゲイ・エイゼンシュテイン監督によるソ連の無声映画。
白黒映画、74分。
「第1次ロシア革命20周年記念」として製作された。

*時代背景
1905年、ロシア国内では厭戦気分が蔓延し始めていた。
1月には、首都サンクトペテルブルグで「血の日曜日事件」がおこり、皇帝ニコライ2世の弾圧政治に対する不満が、民衆のみならず兵士にまで及ぶ。
こうして同年6月に起こったのが「ポチョムキン号の反乱」だった。
戦艦ポチョムキンの正式名は「ポチョムキン・タヴリチェスキー公爵号」。
オデッサの港に停泊していた戦艦ポチョムキンの兵士が反乱を起こし、やがて孤立した兵士たちは処刑及びシベリア流刑という悲惨な運命を辿る。
その史実の前半部分を忠実に再現したのがこの映画だ。

これらの一連の動きは「第一革命」と呼ばれ、1917年ロシア革命の伏線となっていく。

1905年のロシア : 前年に始まった日露戦争が2年目に入っていた時期。



その戦艦の名前の由来がエカテリーナ2世の愛人の一人であった彼↓だ。
グリゴリー・ポチョムキン
グレゴリー・ポチョムキン
グリゴーリ・ポチョムキン
(Grigorii Aleksandrovich Potyomkin )
*グリゴリー、グレゴリー、グリゴーリ等記述いろいろ。


生没 : 1739年~1791年、享年52歳。
ロマノフ王朝の名門軍人。
ロシア帝国秘密参議会参事官、軍法会議副議長、陸軍首席大将にして南部ロシア総督。(=クリミア総督)
女帝エカテリーナ2世の公然な愛人としても有名。

1773年1775年 36歳の時に「プガチョフの乱 」を鎮圧。
コサック出身の指導者プガチョフ(Pugachyov)によって引き起こされた大規模な農民の反乱。

1783年4月のクリミア併合(*)から黒海艦隊を創設したロシアの英雄。
(1783年、女帝54歳、ポチョムキン44歳)
クリミア半島ウクライナ共和国内にあり、黒海に突き出している半島。
クリミア半島地図

★【ロシアの黒海艦隊

そのロシアの南下政策の戦果からこの戦艦の命名となった。
映画で出てくるオデッサの港もこの黒海沿岸にある。
ロシア海軍とこのクリミア半島の関係はその後から現在まで続いている。

★【エンヴェル・パシャとマケル・パシャ】「トルコの民族について」

★【クリミア共和国(クリミア自治共和国)

1991年8月  ウクライナソ連から独立を宣言。
1992年5月  クリミア議会がウクライナから独立を宣言。
          クリミア共和国憲法を制定。
1992年9月  クリミヤ議会が独立宣言を取り消す。
1994年5月  クリミヤ議会がクリミア共和国憲法の復活を決議。
          再度独立を宣言。
1995年4月  ウクライナ政府の支配下に復帰。
          クリミア自治共和国となる。

ロシアがクリミアに関心を示すのは、なにも「ロシア人が多いから」ではない。
クリミアには地中海に睨みを利かせる黒海艦隊の母港が存在するからだ。
ソ連解体で黒海艦隊はウクライナ海軍ロシア海軍で分割することになったが、その具体的な条件についてはなかなかまとまらず、交渉が続いていた。
結局、クリミア半島の海軍基地はロシアが20年間使用できることになり、基地使用料や艦隊分割にあたってウクライナから艦船を購入する費用は、ロシアがウクライナへ供給した天然ガスの債務で帳消しとなった。
つまりロシアは現金を払わずにクリミアの基地と艦隊を手にすることができたわけだが、クリミア独立にロシアが支援をちらつかせることは、交渉を有利に進めるためのカードになった。

こうしてクリミアの独立運動は収拾したのだが、将来的には新たな火種になりそうな状況もあって、クリミア・タタール人の帰還問題がそれ。

クリミアにはかつてジンギスカンの血を引くクリミア汗国があり(略)、1783年にロシアに併合されるまで340年間存在した。
そこに住んでいたのがモンゴルトルコ系でイスラム教徒のクリミア・タタール人だった。


このクリミアと南ロシア、ウクライナなどの関係もまた複雑で、支配したりされたり、独立するのしないの歴史を繰り返している。

↑の記述にあるように地理的に海軍の要所として重要だからなのだが、因果なことだ。
しかし、このような外国の事情を知ることは翻って日本は大丈夫か!?と考えるいい機会でもあると思ったりする今日この頃。(他人事じゃぁないぜ…)






ちなみに1762年のクーデターでは、ポチョムキンも近衛連隊の一員として参加している。
エカテリーナ33歳、ポチョムキン23歳の若き日の出会いがどうだったかは想像の世界。
しかし、この頃の愛人はクーデターで協力してくれた近衛仕官グリゴリー・オルローフ伯爵。
ポチョムキンはまだ青二才の若造くんだった。
二人が恋人として結ばれるのはそれから12年後になる。



1763年、エカテリーナ34歳。
ポーランド国王アウグスト3世の死去とともに、エカテリーナは昔の愛人(*)スタニスワ・ポニャトフスキ伯爵をポーランド国王に送り込む。
しかしこれは、スムータの時代にはモスクワを占領したことさえあったポーランド王国が分割され消滅する序章となってしまった…。
(*1755年~1761年の頃:エカテリーナ26歳~32歳)



1764年、35歳。
ラズモフスキーをヘトマン(*)から解任(最後のヘトマン)。

コサックの頭領・首領のこと、またはその称号。
主にロシア帝国の支配地域で使用される「アタマン」に対し、「ヘーチマン」はポーランド王国の支配地域で主に使用されるが、同地域においても「オタマン」(ウクライナ語でアタマンのこと)の位は使われている。
「全員集会」(クルーク)による選挙で当時としては「民主的」に選ばれる各集団ごとの頭領のこと。
ヘーチマーンを戴くコサック集団は、基本的にはポーランド王国へ「緩い」従属をしていた。
なお、日本語の表記としては、「ヘトマン」やロシア語の(ギェートマン)に沿った「ゲトマン」が多く用いられる。
元は、ドイツ語「ハウプトマン」がポーランド語に入ったものとも言われている。

by 【wikipedia】「ヘーチマーン」より


代わりにマラロシア参事会を設立、ウクライナをロシア国家の一機関の統治する地域とする。



1765年、36歳。
クリミア汗国による最後のロシア南部襲撃が発端となりトルコとの戦争が勃発。
第一次露土戦争
バルチック艦隊は北海をぬけ、ジブラルタル海峡から地中海に入り、トルコ艦隊を撃破。
陸軍もベンダー、ブカレストなどを攻略し、最終的に、はるかイヴァン雷帝の時代から続くタタール人によるロシア南部襲撃の地であったクリミア半島を占領する。

同年、スロボダ・ウクライナの自治を廃止。



1768年、39歳。
ダーシュコヴァ夫人(24歳)、自身と二人の子供の転地療養を名目に西欧旅行を請願する。
クーデターで協力してくれたオルローフ家のやり方と女帝のその後の行動に疑問を感じた賢いこの夫人は宮廷から距離を置くことにしたようだ。
翌年9月勅許を得て、夫人は12月にサンクトペテルブルクを発ち、ミハルコワ夫人の変名で第1回西欧旅行に出発。



1774年、45歳。
クチュク=カイナルジ条約を結び、第一次露土戦争終結。
(9年間も戦争していたのか…)
とりあえずトルコと和平条約を結ぶ。
しかしこれにより、ロシアはドン川河口の黒海の戦略要地アゾフを手に入れる。

*その他の戦略
将来のロシア領への併合を見込んだクリミア汗国オスマントルコからの独立させる。
ボスポラスダータネルス海峡の通行の自由を手に入れ、事実上黒海の制海権を支配、地中海進出への足がかりを得る。
これにより、ロシア帝国の影響はバルカン半島ザカフカース(*)にまで伸びる)

ザカフカースとは?
黒海とカスピ海に挟まれた地域。(大部分がロシア帝国領)
そしてその中央を東西に走る大カフカース山脈の南側が「ザカフカース」であるが、「外カフカース」、「トランス・コーカシア」ともいわれている。



1775年、46歳。
ザポロージェ・コサックを廃止。









ふーーっ!
この辺りになると地理的にもイマイチ馴染みがないせいか、ポーランドトルコロシアが絡み合ってて頭がこんがらがってくる~。(>£<)

基本的にロシアはとにかく一年中凍らない港が欲しかったので、国際世論もなんのその、もう強引に南下政策を続けている頃ですかね?
もっともその正当性を「キリスト教徒が異教徒を駆逐して何が悪い!」と訴えて支持を取り付けることもしていたようです。
トルコとロシアの領土を巡る争いは我々日本人が理解するのに難しいくらいの確執を持っているようである。(ウクライナもか)
日本もロシアとは領土の問題を抱えているが、そういった背景も捉えつつ短絡気短な外交ではいけないなと思う。
ロシア人の気質をもっと研究することも必要かと。

その他この辺りの戦争はキリスト教徒VS回教徒(イスラム教徒)の側面もあるし、この辺に足突っ込むと泥沼になりそう…。
昔、日露戦争で日本がロシアに勝ってトルコが大喜びしたという話をよく聞きますが、そういった「敵の敵は味方」って歴史の背景があったなんて今頃改めて理解したりして。


ちなみにアメリカ独立戦争(*)の際には、ロシアは中立国としてアメリカへの輸出を推進、ヨーロッパ諸国に働きかけ武装中立同盟を結束させたりしてます。(女帝46歳の頃)
*アメリカ独立戦争(1775~1783年)
 1776年 アメリカ独立宣言。
 1778年 星条旗が制定。

米ソ冷戦時代なんてのもありましたが、アメリカの独立を後押しした国でもあるんですよ>ロシア。





歴史ってのはこうして複雑に絡み合って描かれるタペストリーのようなものなのですねぇ。
戦争したからってどっかの国にやいやい言われてほいほい頭下げるだけというような単純なものではないと改めて思いますよ。

とにかく、この南下政策によってロシアは黒海に出る領海権を得たので、その際の指揮を執ったポチョムキンは現在のロシア海軍にとっても大きな意味をもつということです。
(番組ではずいぶんぽっちゃりした優男くんの風体だったのですが、実際はどうだったのか…)











なーんてことしてる最中に二人はどーーーんと恋に落ちたのだ!
うーん、恋文は初々しい限りだが、その背景にはこんなどろっどろの戦争戦略その他てんこもりの政治状態だったわけだよ。



こんなことしながら

「愛しい、愛しい私の旦那さま(はぁと)」

なんて手紙を愛するポチョムキンへせっせと書いていたのだった。
女帝はこの10歳年下の臣下へひっそりと告白メール…恋文を何度も何度も何度も何度も何度も何度も(さすがど根性の女…)送ったようだ。
もちろん愛しているからというだけではなく、彼が自分の政治生命を共にするに相応しいと判断した部分もあったと思う。
ひっそりとはいえ、何人かはその秘密を守るための協力者はいただろうけど。



男はまさかと、女帝の気まぐれだろうと高をくくっていた部分もあったとは思う。
しかし徐々に女帝の恋心が気まぐれやからかいではないことが伝わってきたのだろう。

「まさか!?
いや、本気?

…彼女は本気で私を愛しているというのか?」


そういう愉快な葛藤は彼も楽しんだのではないだろうか。
女帝からのありえない程の豪華絢爛な贈り物や権力的な後ろ盾に目がくらんだ…という部分もあったかもしれない。
自分に惚れた女が極上であればあるほど、自分のことがことさら大きく感じられ自尊心が満たされたかもしれない。

しかし、手紙のやり取りを知ると、とても強大な権力を握る人物のものとは思えないような初々しい、率直な愛情に満ち溢れている文章が二人の間を行き交ったことがほの見えるのだ。
そうしてポチョムキンもとうとう女帝の愛にほだされ二人は晴れて結ばれる。
(という風に番組では捉えられていたが、その辺りの解釈は研究家によってそれぞれだ。
人によってはポチョムキンの方が積極的に女帝に近づいたともある。)

しかし、彼らが愛人関係の中でも特に強い結びつきを得たというのも有名で、女帝はひそかに教会で結婚式まで挙げ夫婦となることを望み、出産までしたのではないかと言われている。
その二人の間に生まれたらしい娘の名がチョムキナ
うーん、名前の響きが「ポチョムキン」と似ている!?w

事実ならエカテリーナ46歳(1775年)の時の子供である。
その説を裏付けるエカテリーナ2世を囲む女官たちの絵があり、描かれている女官の一人がそのチョムキナではないかと番組ではクローズアップしてあった。

「ポチョムキンそっくりな黒い瞳!」
と山口智子が感激していたけども、確かにその瞳の色が特別黒っぽい鳶色で印象的だった。



1774年、エカテリーナ2世、オンナ45歳。
10歳年下の臣下グリゴリー・ポチョムキン(タヴリチェスキー公爵)と結ばれてからの時間は忙しい政務の合間のリフレッシュにもなったのだろう。

実際、心身共に愛し愛されていると実感できると、人間不思議にエネルギーが沸いてくるものだ。
彼はプライベートだけでなく政治家としても軍人としても女帝の不可欠のパートナーとなったというのは番組でも純愛物語の様子で描かれていた。
とってもロマンチックにだ!





そのポチョムキンからエカテリーナ2世へ送られたプレゼントとして「孔雀時計」というのが番組でも紹介されていた。

*「孔雀時計小エルミタージュパビリオンの間にある。

1788年にポチョムキン公爵がキングストン公爵から購入。
イギリスの時計細工師ジェイムズ・コックスの工房で作られた。
★【Hermitage Japan】←「エルミタージュ美術館ヴァーチャルツアー」より


しかし1788年に買ってプレゼントしたということは、その時女帝は59歳、ポチョムキンも49歳と相当いいお年の頃だ。
エカテリーナ2世写真

写真はそれでもまだ若い頃のものだと思うけど、番組ではずいぶん若い女優さんが美しい笑顔でその贈り物の時計を眺めている映像が流れたが、その贈り物自体はもう二人に肉体的な男女の関係はなくなっていた頃では…?

それは置いといて、その孔雀が
「くえーーーーーっ!」
という妙な音を出す。
それが山口智子には笑いのツボに入ってしまい、

「こんな風に笑わせてくれるところにエカテリーナは惚れたんだね♪」

と面白い解釈してましたっけ。
そういう解釈できるあなたもかなり愉快な感性してるなーwと思ったこるちです。
ともかく、その女帝がポチョムキンへ送った恋文が残っており、今になって研究されているからこそ二人の人間の生身のやり取りが想像できるのだろうけど。






しかし愛娘の出産後、二人の蜜月はそう長く続かなかったようだ。
男は自分の器の小ささに不機嫌になり、女は男がナゼ不機嫌になるのかが分からない…。
よくある心のすれ違いが手紙から読み取れる。
この辺りはちょっと切ないオンナ心。

もっとも、二人の関係が恋人と呼べなくなっていった過程で、エカテリーナはポチョムキンへ宛てた手紙を「焼き捨てるように」と指示したにも関わらず、彼は捨てずに常に持ち歩いていたというのだから…男って。(苦笑)

もちろん、女帝はポチョムキンからの手紙は不用意に政治利用されないようにという意味もあったのだろうが、すっぱりと焼き捨てている。(あっぱれ)



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