小さなお茶会 ~じるこん堂へようこそ~

匂いの迷路をひげの指すとおり進めば 少々思わぬことに出くわしても辿りつける…らしい。

09« 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31.»11

このページの記事一覧

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 *  TB: --  *  CM: --  * top △ 

その後の日本とロシア(とクリミア半島) 

まだ引っ張るか、ロシア!
うふ、だって歴史って泥沼なんだもの~(泣)。

エカテリーナ2世の死後も、クリミア半島では海軍の覇権をめぐってだぁらだらな戦争が起きている。
1853年1856年
クリミア戦争
ロシアとイギリス、フランス、オスマン帝国との間でクリミア半島をめぐって起きた泥沼戦争だ。

ちなみにこの1853年は嘉永6年
日本に、アメリカの使節ペリーが黒船にて浦賀へ来航した年でもある!(ジャーン!)

それは大黒屋光太夫エカテリーナ2世と謁見してから(1791年)はや62年後の世界。
この60年余りの間に、鎖国中のはずの日本はどう変化していったのだろう?




さて、大黒屋光太夫がロシアから帰国して後、幕府はロシアの接近に対応するために蝦夷地を一時直轄とするなど対策に乗り出していた。

もともと1786年(天明6年)には、最上徳内に蝦夷地と千島を探検させている。




1789年(寛政10年)
近藤重蔵が松前蝦夷地御用掛となる。(幕府の命で千島列島を探検もしている)
択捉島を調査し、「大日本恵登呂府」の木標を立てる。



1799年(寛政11年)
東蝦夷地(北海道の南部)を直轄とする。



1800年(寛政12年)
伊能忠敬の蝦夷地の測量が開始される。

伊能忠敬とは?
上総出身、18歳の時に下総佐倉の酒造家で名主を務める豪農伊能家に養子として入る。
家業の興隆、民生の安定に努め、苗字・帯刀を許された。
忙しい合間を縫って、算数・測量・天文などを独学で学び、50歳で家督を譲った後、江戸に出て19歳年下の幕府天文方高橋至時(よしとき)に師事し、西洋暦法や測図法を学ぶ。


…農家の生まれなのに、何が彼をそこまで突き動かしたのだろう?
それも、この時代に。
静かな江戸の時代が終焉しつつ、きな臭い匂いが漂っていったこの時代に。



1801年(享和元年)
富山元十郎らが千島列島ウルップ島に「天地長久大日本属島」の標柱を立てる。



1802年(享和2年)
蝦夷奉行を設置。
同年箱館奉行と改称。



1804年(文化元年)
ロシアの使節レザノフが、ラクスマンに与えられた入港許可証をもって大西洋・太平洋を経て長崎へ入港。
(その時も漂着民を連れていたらしい。やはり少なからず下心ありの来訪かな?かな?)
幕府は漂流民4名は受け取ったそうだが、レザノフは半年待たされた挙げ句に通商を拒否されたので相当憤慨したらしい。

(この田舎国家の未開人のくせに!)

…と毒づいたのかは知らない。w
長崎を退去し、カムチャッカへ行き使節を解散するが、その間に宗谷湾や樺太などを調査、北方日本の防衛施設が貧弱であることを調べている
(何のための調査かよい子は分かるよね!)

レザノフは樺太、蝦夷地への攻撃命令も下し(!?)、そのまま復命書を皇帝へ届けるべくシベリアを横断していったので、その後北日本は次々とロシアからの攻撃に見舞われることになる。



1805年(文化2年)
函館奉行を松前奉行と改称。



1806年(文化3年)
『文化の薪水給与令』。
この法令では、外国船に対しては穏便に対応し漂流船に対しては薪水を与えてあげることを命じている。
「困ったときはお互い様」精神てのだ。
この頃まだ幕府は開国しないまでも、外国船に対して穏便であったのだ。




1807年(文化4年)
西蝦夷地(北海道の北部)を直轄とする。
(一時直轄とした蝦夷地は1821年(文政4年)に松前藩に返されている)
同年、9月。
攻撃命令により、ロシア側が樺太大泊を襲撃。
松前藩の役人を捕らえ荷物を奪うとともに同地を占拠。



1808年(文化5年)
間宮林蔵が樺太探検に出る。
間宮林蔵は常陸筑波郡に生まれで、普請役雇に見出されて江戸に出て、後に蝦夷地へ渡って樺太などを探検した人物だ。
当初は寒さに負けて病気がちで、とても探検する状況ではなかったという。
そんな間宮に忠告したのはそこに住む土地の人だった。

「ここで暮らしたいならアイヌの真似をせよ」

と言われ、魚などを食べ始めたのだそうな。(←え?)
当時の日本人てほんとうに野菜ぱっかり喰ってたんだなぁ。
ともかくその忠告のお陰で間宮は以後頑強な体となり、偉業を成し遂げたというから面白い。
それにちゃんとジモピーの忠告を聞き入れるあたり、上から目線でないのがよい。
翌1809年には樺太が島であることを発見し、間宮海峡と名付けられたのは有名だ。
間宮林蔵は、さらに大陸に渡って黒竜江をさかのぼっての調査もしている。

*黒竜江とはアムール川のこと。
この川は、現在ロシア側のアムール州ハバロフスク地方・ユダヤ自治州と中国側の黒龍江省吉林省との国境でもある。
川沿いの主要な都市
ロシア(チタ、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、コムソモルスク・ナ・アムーレ、ニコラエフスク・ナ・アムーレ)
中国(黒河市・同江市など)
黒竜江=アムール川


ちなみに↑の地図を見れば分かるが、中国は北朝鮮とロシアに日本海へ通じる道を阻まれている形になっている。
っていうか、今、気が付いた。(黒竜江で下るにしてもロシア領を通過する形になる)
中国としては、日本海へ強いては太平洋へ出る港を利用するためには北朝鮮とロシアの協力が不可欠なわけだ。
そういう地理を知ると、あの三国が仲良くしている(一応)意味がよくわかる。
こういうことを少しでもかじっておくと、

北方領土竹島
いいじゃん、大して資源があるわけでもないし、せいぜい漁業に携わる人にしか関係ないじゃん?
あげちゃいなよ、ロシアと韓国に。(うるさいし~)
そんな小さな島のためにケンカするなんてみっともないよ、めんどくさいよ」


…なんて言ってられない理由に気づく。
ケンカは時には必要だということも。(もちろん口喧嘩も)
まぁ、昔は自分も「めんどくさいし」派だったわけだが。



同年、4月。
ロシア側、択捉島を襲撃。
この際日本側は戸田又太夫が防御につとめるが追い詰められた末か自刃。
翌5月には樺太の運上屋が焼かれ、利尻島も襲撃を受け、艦船2隻が焼かれている。



同じく1808年。
フェートン号事件(イギリス船)
択捉島や樺太がロシア人レザノフの命令で攻撃されていた頃、長崎にイギリス船が迫っていた。
フェートン号はオランダ船(オランダ商館員)を捕らえるため、一方的に長崎へ乱入して来た。
あつかましいというか、なんというか、イギリスが長崎に乱入し、オランダ商館員を捕らえた上で人質として薪水と食糧を要求した。
というか薪水と食糧を強奪して長崎から退去した。

当時の長崎は警備力が不足しており、そのような厚かましい要求を聞き入れてしまった。
時の長崎奉行、松平康英は長崎の警備力不足の責任をとって切腹自殺している。(なにもそこまで責任感じなくても~泣)

ちなみにこの頃のオランダはナポレオン戦争によってフランスの属国となり、イギリスとオランダは敵対関係にあったのだ。

もう、北も南もヤバイ空気が忍び寄ってますわ。



1809年(文化6年)
幕府は、現在の樺太を北蝦夷と呼ぶようになる。
千島は、東蝦夷。
千島アイヌはクリルとよばれ、千島列島はクルミセ島とも呼ばれていた。
樺太も、もともとは「唐人」(からひと)が転じて「唐太」となったとされる。
土地の言葉では「サハリャン=ウラ=アンガ=ハタ」(黒竜江口峰の意)という。
(北蝦夷が樺太に、東蝦夷が千島に改称されたのは1869年(明治2年)になってから)



1811年(文化8年)
ディアナ号の艦長ゴローニンが、千島列島を測量中に国後島で捕らえられ、2年4ヶ月にわたり箱館・松前に監禁される。
この事件は、翌年にロシアに捕らえられた淡路の商人高田屋嘉兵衛の一案により、ゴローニンと嘉兵衛を交換する形でお互いが釈放される。

また「一介の商人」が外交交渉において頑張ったのか。
いや、さすが商人!交渉術は商売の腕の見せ所だ。
大黒屋光太夫といい、この高田屋嘉兵衛といい「商人」すげーな。
ゴローニンは、釈放後に『日本幽囚記』をまとめているが、よほど怖い思いをしたのか?
内容が気になるなぁ♪

…(略)…抑留生活を記述するにとどまらず、鎖国下の日本やアイヌ人の風俗や習慣、宗教、社会、政治といったところにまで視野が及んでいる。
また、捕縛した日本人と日本について呪詛を書き連ねることなく、あくまで冷静に彼の観察した事柄を書いているところもこの本の長所である。
そのため、19世紀欧米においてこの本は日本を理解するための重要な書とみなされた。
出版後すぐに各国語に翻訳され、日本でも1825年に翻訳されている。
ペリープチャーチンも読んでいたらしいし、ドイツの詩人ハイネも友人宛ての手紙のなかで、日本人のことを知りたかったらこの本を読むよう薦めていたらしい。
最後に、ゴローニンリコルド高田屋嘉兵衛の子孫が再会されているそうである。
この本と併せて、事件の経緯や背景を知るためにも、司馬遼太郎氏作『菜の花の沖』を読んだほうがよい。
★【アマゾンの『日本幽囚記』レビュー】より


なんだ、面白そうじゃないか!

この高田屋嘉兵衛も面白いエピソードがありそう。
日本に幽閉された艦長ゴローニンを助けるべく、ロシアの副艦長のリコルドはどうしたか?
函館から国後島に航行する商船を捕らえて人質にし、ロシア領カムチャトカに連行したのだ。(←おい!民間人には手を出しちゃいけないんじゃなかったのか?もう~っ)
それが観世丸に乗っていた商人高田屋嘉兵衛なのだが、その後接しているうちにこの二人の間に信頼と友情が芽生え、そのお陰でゴローニンは救出されるのだ。
この話は有名で歴史書にもよく取り上げられているらしく、また嘉兵衛を主人公にした司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』は有名らしい。(ほうほう)
菜の花の沖〈6〉 菜の花の沖〈6〉
司馬 遼太郎 (2000/09)
文藝春秋

*詳細を見る

ちょっと興味そそられるなぁw(しかしこの表紙ではsabuかと思っちゃうじゃないの///)



1821年(文政4年)
大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』が高橋景保の手によって完成する。
高橋景保は伊能忠敬の師であった高橋至時の長男である。
その地図が完成したのも、伊能忠敬が亡くなってから3年後のことだった。
この地図は単純な実測によってではあるが、実に驚異的な正確さを誇っている。
今見ても感動するな、きっと。
★【国立国会図書館貴重展『大日本沿海與地全図』

この19歳年下の高橋至時に師事した伊能忠敬の関係も物語りにしたら面白いものになるだろうなぁ。
★【日本史なんて怖くない!「No.363・2003/09/02」版】より



1824年(文政7年)
常陸大津浜と薩摩宝島にイギリス捕鯨船が上陸し、牧牛略奪事件を起こす。



1825年(文政8年)
とうとう『異国船打払令』を出す。
(まぁ、「いいかげんにしやがれっ(怒)!」てところか)




1828年(文政11年)
シーボルト事件
シーボルトの帰国に際して起こった蘭学者迫害事件。
しかし、これはシーボルトも悪いわ。
任期満了帰国のため積荷を始めた船が台風のため長崎港外で難破。
その時に、長崎奉行所役人に当時外国人には持ち出し禁止にされていた日本地図 (伊能忠敬著)が発見されたのだ。
その地図は洋書と引き換えに、よりによって幕府天文方高橋景保が与えたものだと判明。
以下、多数の関係日本人が逮捕処罰され、シーボルト自身も国外追放の処分を受けた。

高橋景保の渡した日本地図は返還される以前に写しとられ、1854年(安政元年)日本辺界略』として出版されている。
うーん、せっかく作った地図をみすみす外国に渡すなんて…って感じではあるが、彼はその洋書をどうしても手に入れたかったのだろうか。



1832年(天保3年)
イギリス船、次々と沖縄の那覇に漂着する。



1833年(天保4年)
天保の飢饉(~1839年)。
外国とごたごたしてる場合じゃないのよっ!と。




1837年(天保8年)
モリソン号事件
浦賀沖に来航した広東のアメリカ貿易会社の持ち船モリソン号が、異国船打払令によって砲撃される。
ついでに鹿児島湾山川でも砲撃を受け、マカオに帰っていった事件。
この船は日本の難破船員を送還し日本と貿易を開こうとしたのだが…。(なんかこのパターンって…)
後に「蛮社の獄」の一原因となる。



1839年(天保10年)
蛮社の獄
幕府が渡辺崋山高野長英らの洋学者たちを断罪した大粛清事件。
蛮社とは「蛮学社中」の略で、主としてシーボルト門下の蘭学者を中心に洋学の研究・政治・経済・文化などを目的に集まっていた。
幕府は人心をまどわし幕政を批判するのは不届きとし、崋山ら26名を捕らえる。
罪状を捏造し(*本当か?)、崋山を国元謹慎、長英には終身刑の判決を下す。

ま、『海国兵談』を著した林子平も罰せられていたっけか。(1792年だっけ?)
この著書はロシア南下を警告して海防論を展開しており、軍備・戦術を図解説明したものだが、やはり人心を惑わすとして処罰されたのだ。(ふーむ、まぁ混乱はするわな)
しかし、ロシアの使節ラクスマンが大黒屋光太夫を連れて根室に着いたのは、このこのわずか4ヶ月後だった。

実はさらにその数年前からこの人はロシアの南下政策について知っていて、蝦夷地の確保が日本のロシアによる植民地化防止になると考えていた。(すげーな!)
鎖国中なのにどうしてそんなことを考えたのか?
1738年(元文3年)江戸で生まれた林子平だが、1741年に父が同僚を殺傷し、浪人になったため叔父に預けられたが、いろいろあって兄とともに仙台に移り住んだ。
子平の身分は無禄厄介というものだったが、彼はこれを逆用して自由に長崎に赴き見聞を広めたのだという。(仙台から長崎まで!?)
その長崎でロシアの情報を知る。
そこで子平はロシア人より先に蝦夷地を日本の領土にするために、蝦夷地を経済的に開発し、アイヌを教化し、日本人の蝦夷地観を改め、蝦夷を日本の国内とする認識を確立することが急務であると考えたのだ。
蝦夷地開発論、北方防備論の必要をラクスマンが来る遥か前に、しかも日本にいながら知っていたというのは驚きだ。
林子平は、高山彦九郎蒲生君平とあわせ、「寛政の三奇人」wと呼ばれている。

★【林子平の海防論
★【三国通覧図説

しかし、彼らの心配はすぐに確信へと変わる。



1840年(天保11年)
オランダ船入港し、中国とイギリスのアヘン戦争を報じる。
この事件に幕府も冷や汗ものだったことだろう。
あの大陸の大国、中国(清)が外国に食い物にされているのを知ったのだ。
今後日本に何かあっても、中国は日本を助けてはくれまい。
*【アヘン戦争とは?

*アヘンとは?
ケシから抽出する麻薬。
アヘン
(ケシの液汁を固めたり加工したりしたもの)
顔面が紅潮、発汗し、全身がやせ細り、皮膚は蒼白、眼光は鋭くなり、その他の眼症状、神経症状も出現。
禁断症状になると、恐怖・不安・不眠に襲われ、ときに幻覚、手足の震えを訴え、最後は呼吸麻痺で死ぬ。

モルヒネ
(アヘンから純粋抽出したもの)
飢餓感がなくなって食物をとらず、やせてくる。
皮膚は蒼白となって乾燥し、毛髪が抜け落ちる。

ヘロイン(モルヒネの化合物)
不安、不眠、沈鬱あるいは発揚などの精神症状や嘔吐、発汗、発熱、下痢などの症状を表し、食欲不振、震え、脈拍急迫、精神遅鈍となり、心身共に衰弱する。


ちなみに、この麻薬で国民の心身を蝕んで、国力そのものを落とし、じわじわと攻める戦略は今でもどこぞの国が国策として行っているそうな。
日本に流入してくる麻薬の多くがどこの国からもたらされるかニュースなどで観察してみるといい。



1841年(天保12年)
島津久風に洋式砲術を谷山塩屋で試験させる。
軍隊の近代化が急がれる…。



1842年(天保13年)
異国船薪水令』を下す。
外国の武力を恐れた幕府は異国船打払令を撤廃。
「外国船に対して穏便に対応せよ」という法令を出した。=『天保の薪水給与令』。
(1806年に一度出しているが、その時とは意味あいがビミョーに変わっている)
棄捐令



1844年(弘化元年)
とうとう貿易相手のオランダが国書を持って開国を勧告してくる。
フランス艦、那覇に来航。
通信、貿易、キリスト教の布教を求めてくる。

来たな!



1845年(弘化2年)
当然、幕府は開国を拒絶。



1846年(弘化3年)
アメリカ、通商を要求してくる。
当然、拒絶。


1849年(嘉永2年)
アメリカ艦が長崎に、イギリス艦が浦賀に来る。
とうとう艦船を持ち出して脅しにかかってきたか。





そして。

1853年(嘉永6年)
アメリカの使節ペリー、浦賀へ黒船にて来航。




ここから、日本へ怒涛のように列強がなだれ込んでくるのである。



1854年(安政元年)
ペリー再来。
アメリカ・イギリス・ロシアと和親条約を結ぶ。
しかし、やられっぱなしではない。
この年、近代化に必要な熔鉱炉を竣工。




1855年(安政2年)
フランス・オランダと和親条約を結ぶ。(オランダってフランスの属国になったんじゃ?)
安政の大地震…江戸大地震


…以下つづく。(いや打ち止め)







しかし、そのきな臭い時代にも面白い人間というのはいるもので、彼女↓もその一人だ。
★【クリミアの天使ナイティンゲール
ここではナイティンゲールだが、私の時代はナイチンゲールだった。
そうかー、ナイチンゲールって知ってたけど、それがこのクリミア戦争が舞台だったとは知らなかったー。

フローレンス・ナイティンゲールは1820年5月12日、富裕な家庭の娘としてイタリアのフィレンツェに生まれた。
父はイギリスのジェントリー(*)であり、母も大商人の娘で、当時の金持ちの上流婦人の例にもれず、狭い上流社会の社交的な楽しみだけを追い求めていた。
(*ジェントリー?貴族だったってこと?ああ、イタリア生まれだけどイギリス人だったのか>ナイチンゲール)

ナイティンゲールにも華やかな社交生活や結婚の誘惑があった。
しかし彼女は、生来、看護・衛生・社会問題に深い関心をもち、幼時から折りにふれて病人に接していた。
彼女には、家族から独立して人類と神に奉仕したいという強い意志があった

1844年、24歳の彼女は病院で働く決心をした。
両親はこの計画に猛反対した。
看護婦は貴婦人のする仕事ではなく、身分の低い下女たちのするような卑しい仕事であるというのが反対の理由だ。

しかし、彼女は反対を押し切ってしばらく開業医の看護婦見習を務め、続いてドイツ人学校病院カイザーヴェルト学園に学び、念願の看護婦になれたのは30歳のときだった。



ああ、クリミアの戦争は遠い土地の出来事でも、自分の国が関係していたので無関心ではいられなかったのかなぁ。
それとも単にこの時イギリスが戦争してたのがクリミアだったのでたまたま派遣先の従軍医療に携わっただけなのか。
どちらにしろ、そのような戦地へ行くのに家族は大反対しただろう。
現在だって、「そんなところへ行って何かあったらどうするの!」って反対されるだろうなぁ。
それでも行っちゃったんだなぁ。

30歳過ぎて、嫁にも行かず戦場で看護婦なんて「白衣の天使」もただのおしとやかじゃやってられないんじゃないだろうか。

それこそ、強い意志と信念がないと。

そういば、このナイチンゲールも「頑固で男勝りな性格」だったようだ。
ふむふむ、自分の道を追及していくとそういう性格になるもんなのかもしれない。
なんだかエカテリーナ2世やダーシュコヴァ夫人とも似ている気が…ww。


このクリミア戦争については、開戦の経緯とかこれもまたもう複雑でこんがらがっちゃうのでこのくらいでフェードアウト~しとくことにしま…。w


歴史雑感 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 

この記事に対するコメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL
→http://ilovemannga05.blog39.fc2.com/tb.php/136-03071804
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。