小さなお茶会 ~じるこん堂へようこそ~

匂いの迷路をひげの指すとおり進めば 少々思わぬことに出くわしても辿りつける…らしい。

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ロシアの女帝 エカテリーナ2世 ⑤ 

ともかく、そういった純粋な少女のような恋文を書く一方、エカテリーナ2世は貪欲な領土拡大政策もしっかり展開している。
なんだかんだとロシア勢力の拡大に貢献したロシア史上二人しかいない「大帝」の一人として彼女は働いた。
愛だ恋だで廃れていく女ではなかったことは確かだろう。

もしかして、ポチョムキンの方が身分的に“女帝の愛人”としては不相応だった部分もあったのかもしれない。
娼婦ベロニカ』とは逆のパターンというかw。

彼は彼で、別れてからも

「エカテリーナの望むことを手伝い成し遂げたい」

という思いを抱きつつ、遠く南ロシア(クリミア)へと旅立っていく。
二人の熱愛が冷めた時から、ポチョムキンはエカテリーナに新しい愛人を紹介する役に回ったとされるが、女帝の好みを知り尽くしているからこそということもあっただろうし、むしろ離れていても自分の影響力を彼女に残しておきたかったという男心でもあるようにも感じる。




しかしどんなに愛人を取り替えても、女帝にとってポチョムキンがただ一人心から愛を感じることができ、なおかつ友情を忘れない信頼できる人物だったことに代わりはないようだ。
女帝は権力で愛人を繋ぎ留めることはせず、彼がやりたいことをさせる道を選び権限を与え、自分はロシアという国をますます強大にしヨーロッパでの発言権を強めるべく政治に命を懸ける勢いで邁進するのだった。






1780年、51歳。
マラロシア参事会を廃止。
キエフ、ノヴゴロド・セーヴェルツキー、チェルニーゴフの3県を置く。
(この地方をロシアの一地方に格下げにした)


1782年、53歳。
欧州旅行から帰国したダーシュコヴァ婦人がポチョムキンを通じて女帝に拝謁する。
(1768年第1回欧州旅行から14年後。女帝53歳、夫人38歳、ポチョムキン43歳)
夫人の次男パーヴェルは、将校に任官しポチョムキンの副官として南ロシアに赴任。


1783年、54歳。
1月24日、女帝エカテリーナ2世はダーシュコヴァ夫人をサンクトペテルブルク科学アカデミー院長に任命する。
夫人はアカデミーにおける学者の優位を確認し、帝国に研究成果を普及することを方針とする。
それと共に夫人は財政再建出版活動の活性化にも力を注ぐ。
レオンハルト・オイラーの論文集や教科書、地図、ミハイル・ロモノーソフ全集を出版し、廉価で販売、約16万ルーブルの黒字を生む。
(ダーシュコヴァ夫人は経済によく通じている商売上手だったのだ!)
   ↓
この資金を元に学者のための基金を創設。
さらに幾何学、力学、化学、地理学、博物学の公開講座を開催し、下級貴族や下士官を中心とする各層に学問の門戸を開く。(すばらしい!)

エカテリーナ2世は外交だけでなく、国内においてはロシアの文化・教育の整備にも力を注ぎ、ダーシコヴァ夫人を筆頭にロシア語辞典の編纂事業に着手、後世のロシア文学発展の基盤を造る。(ふたりは、教育が市民のひいては国家のレベルを上げることを知っていたのだ)

また、女子貴族のための学校を設立し、ヨーロッパ諸国の宮廷・社交界に送り込む貴婦人の養成にも力を入れた。(あらまそれこそ‘高級娼婦’の法則ですわ)
女帝自身も文筆に優れ、回想録、書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残しており、フランスなど外国の出版物にも寄稿することでロシアが文化的にもヨーロッパに引けをとらない国というイメージアップも兼ねた。








1783年、54歳。
この年は女帝にとって政治的にもっとも大きな意味のある年となる。

7月、ロシア念願のクリミア併合
→凍らない港+海軍によるロシアの権威を海外に示す地理的優位を得る。
登録コサック制度を廃止し、全ウクライナの自治を廃止する。
(*コサック国家ウクライナは、ロシア帝国に完全に併合される。)
カスピ海黒海の支配を強め、コンスタンティノープルに睨みを利かせる。



エカテリーナ2世も勢いあまって(?)ポチョムキンのお薦めではない若い愛人と自由に関係を結ぶ。
相手は25歳の美青年!?アレクサンドル・ランスコーイ。
しかしそのランスコーイが若くして亡くなってしまい、意気消沈しているところへポチョムキンが元気付けるためにクリミア旅行を勧める。
(この旅行は宮殿ごと移動するような大規模なものになり、敗戦したばかりのトルコの怒りを買い、後に第二次露土戦争へ繋がる)




1787年(58歳)、オスマン・トルコと戦争が始まる。
1787年1792年 
第二次露土戦争
(1788年~1793年という記述もあるのよね…。その頃日本は江戸時代天明7年の頃)
しかしたいした成果もなく1792年(63歳)に講和している。(5年も戦争したのに…)

もっとも、ロシアにそんな得はなかったようだが、この戦争によってオスマン・トルコに数百年来支配されていたブルガリアは独立することができたらしい。







戦争ばかりしているようだが、対外的には啓蒙専制君主と見られることを好み、紛争における仲裁者の役割をしばしば努めようしているのだから一見不思議に思えるが、これはロシアの国際的影響力を高めるためでもあったようだ。

外交上手な皇帝だったようだ。






ちなみに、当時のロシアと日本の間では鎖国だった日本にロシア船が漂着したのをきっかけに何回か交渉がありロシアは日本へも使節を送っている。
凍らない港と貪欲な領土欲が日本という国も飲み込もうとしたと推察するが、この頃はまだ極東の島国に出兵する余裕はなかったようだ。(現在はどうかな~。用心、用心!)

1771年(明和8年) ロシア船、阿波などに漂着。
1778年(安永7年) ロシア船、国後島来て松前藩に通商要求する。
1779年(安永8年) 松前藩はロシア船からの通商要求受け拒否する。
同年、桜島が噴火、死者150人余りが出る。
1786年(天明6年) 水害風害田畑被害多く、死傷者を多く出す。
(天明の大飢饉:江戸時代の天明年間におこった全国的飢饉。
1783年(天明3年)から度重なる天候不順で、洪水などの災害が相次ぎ、疫病が流行、穀物は実らず、米価が高騰して全国的飢饉となる。
東北地方の飢饉は特にひどく、牛馬犬猫はもとより、草根木皮から壁土まで食べつくし、甚だしくは死人の肉まで食べたとも。
餓死者・離村者が相次ぎ、死者は10万人ともいわれる。
京都・大坂では窮民が米商人を襲う、天明の打ち壊しが起こる)

1792年(寛政4年) ロシア使節ラクスマン、根室に来航する。(女帝63歳)
日本は富山の薬売りを禁止、薬園奉行を置く。



この↑使節ラスクマンは、遭難し日本からロシアに漂流してきた大黒屋光太夫という人物を連れていたことでも有名だ。

大黒屋光太夫とは?
1751年(宝暦元年)、伊勢国白子浦に近い南若松の農夫の子に生まれる。
(現在の三重県鈴鹿市南若松)伊勢の商人となる。
白子は染型紙の特産地で知られるが、当時は松坂木綿や薬種を江戸へ積みだす屈指の商港もあった。

1782年(天明2年)、12月。
光太夫31歳の時、千石船神昌丸の船頭として16名の船員とともに白子を出発。
米や木綿を積んで伊勢から江戸に向かうが、駿河沖で難破する。

1783年
船の一行(17名)はアリューシャン列島の西端に近いアムチトカという島(当時は帝政ロシア領)に漂着する。(8ヶ月間も漂流してたとか!?)
島民のロシア人は好意的であったらしいが、ここで仲間7名を病気で亡くした(うち一人は漂流中に死亡)。
寒さや飢えと闘いながら4年間を過ごし、そこに来たロシア人の毛皮商人に助けられる。
カムチャッカヘ上陸し1年滞在したが、ここでさらに3名が亡くなっている。
ロシア人商人に連れられて一行はロシア本土に渡り、オホーツクヤクーツクイルクーツクに滞在する。
★【イルクーツクってこんなトコ

1789年
イルクーツクに到着した時には厳しい環境や病気のためか、光太夫の一行は5名に減っている。
光太夫らはここで帰国を申請したが、彼らを日本語学校の教師にしようと考えたシベリア総督により拒否される。
仲間だった庄蔵・新蔵の2名は洗礼を受けてロシアに帰化。
光太夫は、そこで企業経営をしていたロシア帝室付で自然科学者のキリル・ラクスマン教授と知り合う。
ラスクマン教授はどうも親身になって光太夫の思いを感じてくれたようだ。

1791年
ラスクマンの紹介で光太夫は当時の皇帝エカテリーナ2世に謁見できるようになった。
日本からとうとうロシアの西の都サンクトペテルブルクまで行ったという、当時の日本人としては珍しい体験をしたわけだ。(いや、現在でもシベリアを横断してサンクトペテルブルクまで行ったら相当珍しい体験だろう!)

彼ははるばる旅をして女帝にに謁見し「日本に帰りたい」と訴える。(泣)
その結果、女帝のどういう気まぐれか3ヵ月後に帰国が許された。
その間、光太夫の人柄と教養もあいまって国賓なみの扱いを受けたというから驚きだ。
光太夫を日本語学校の教師にと望む声もあったが女帝は日本との貿易に関心もあり漂着民大黒屋光太夫らを日本に送り届けるという名目で、日本に使節を送ることにする。(もちろん貿易だけが目的ではなかったと思うが…)

光太夫らは、11月1日には女帝エカテリーナ2世から餞別に紅茶を贈られたというから、異教徒の国の一介の商人に対し、よほどの待遇だといえる。(いい男だったのか!?>光太夫!)
その時使節に選ばれたのが、光太夫たちの面倒をみていたラクスマン教授の息子アダム・ラクスマンなのである。

5名になった一行のうち2名は結局ロシアに残ることを選んだ。
ロシア人との結婚、改宗などで生活基盤がロシアにできてしまっていたからだ。
結局最初の17名のうち、大黒屋光太夫、磯吉、小市の3名が日本に向かう。(小市は根室で死亡)

1792年(寛政4年)、9月。
ロシア使節が大黒屋光太夫と北浜磯吉を連れて北海道の根室に到着。

大黒屋光太夫、41歳。
遭難してから10年が経っていた。
しかし、前例のないことに幕府は大混乱となっていたらしい。
エカテリーナ2世号

*使節ラクスマンの乗ったエカテリーナ2世号
北槎聞略』 桂川甫周著 吉川弘文館 昭和40年より。

1793年、6月。
使節と役人の長い交渉の結果、やっと松前(*)で光太夫と磯吉は幕府側に引渡される。
(*現在の北海道松前町
北海道松前町地図


鎖国政策中の幕府は、漂着民は受け取るが外交交渉は長崎でしか行わない、とラクスマンに長崎への入港許可書を与えて追い返している。(*この時点では日本との貿易交渉は事実上失敗)

日本側に引き渡された光太夫らは北海道から江戸に護送される。
外国への行き来を厳しく禁止されていたため、光太夫は江戸で幕府の役人から取り調べを受ける。(ロシアからのスパイ容疑もあったため)
ロシアを見てきた最初の日本人として、将軍や老中松平定信の前で様々な質問を受けているが、彼らはそれに的確に答え、なんとかスパイ容疑も晴れたようだ。
光太夫の持ち帰った知識は当時日本に芽生えた蘭学にも大きく影響を与える。
桂川甫周(*かつらがわほしゅう)はそれを『北槎聞略』という書物に著している。
(*ロシアでも名を知られていた蘭学者…というのも光太夫の伝聞なのか?)

日本の一介の商人がロシアの最高権威である皇帝と謁見し、ロシアの上流階級とも付き合いも持ち、ヨーロッパの制度や思想もそれなりに理解していたのだ。
鎖国政策中の幕府から見れば、光太夫は広い世界を知ってしまった危険な人物と映っただろう。(キリスト教を国教とする国に何年も滞在していたのだし)
当然一般庶民と交わらせることはできない。
やっとの思いで帰国できた光太夫と磯吉だったが、江戸に家を与えられ死ぬまで軟禁生活を送ることになった。
そのためよく「鎖国政策の被害者」ともいわれている。

しかし、その軟禁した家というのが江戸番町薬草場
★【古地図コレクション】参照~。

帰国後故郷の伊勢へ帰ることも出来なかった彼だが、その知識は医学的にも貢献していたのではないだろうか?
光太夫はここで新たに妻帯し、1男1女を授かっている。
軟禁生活とはいえ、罪人扱いというにはかなり穏やかな生活をしていたということだ。
1828年(文政11年)、光太夫は78歳でこの世を去っている。
当時としてはそれもかなりの大往生だろう。
磯吉はその10年後の1838年に75歳で亡くなった。

彼らは薬園に収容されてから半年後の寛政6年11月11日(西暦1795年1月1日に当たる)に、大槻玄沢芝蘭堂で開いた新元会(オランダ正月)に出席したりしているので、全くの牢獄生活だったわけではない。(幕府が彼らの移動や庶民との接触を限定したのは当時の政策上しかたないと私は思う)

★【芝蘭堂新元会図
図中の人物の中で、羽ペンを片手にロシア文字を披露している人物が光太夫です。光太夫は、床の間を背にした上座に座っており、正客に招かれての宴であったことがわかります。


もっともこれは数少ない文化活動だったようだが、彼らが一部の人々にも興味津々だったことが伺われる。

★【日本史なんて怖くない「幕政の衰退(1)・列強の接近(1)」】より



光太夫は片時も煙草と帳面を離さなかったという。
彼は珍しいものに興味を隠さない好奇心旺盛な人物でもあったようだ。
その人柄が、ロシアでも好まれ買われていたのかもしれない。


よく、ロシアを知っている貴重な日本人なのに、罪人扱いでひどいとか、幕府がこのような人物をもっと有意義に用いるべきだったという意見がある。
それはその通りではあるが、私は鎖国中であるからこそ、彼らの知識を幕府が参考にはしていたと思う。
でなければ彼らをそう緩やかに生かしていなかっただろう。
政策上それを広く知らせることはしなかったかもしれないが、幕府は長崎での貿易からも海外の国際情勢をいくらか収集している。
当時はヨーロッパ諸国が本格的にアジアに進出してきた時代でもあるのだ。


1771年(女帝42歳)にロシア帝国が日本と接触してから約130年後、そのロシアと日本はガチで近代戦争することになる。
(というか、その頃に小さな島国の日本があんな大きな国と戦争できたってことが今更だが驚きだ)

(閑話休題…)








ともかくエカテリーナは在位中に、オスマントルコ帝国との露土戦争(①1768年~1774年、②1787年~1792年)に勝利してウクライナの大部分やクリミア汗国を併合し、バルカン半島進出の基礎を築いた。
ロシアにとってはこの南下政策は歴史上大きな意味を持った。
もちろんトルコにとっては不愉快な歴史であり、女帝は魔女と映っただろう。



1789年1799年
フランス革命が勃発し、女帝とダーシュコヴァ夫人との間に言論の自由をめぐり亀裂が生じるようになる。
夫人は学問や思想の自由を愛するアカデミック肌であった。
もちろんエカテリーナ自身も啓蒙思想を崇拝する比較的自由な思想の女性ではあったが、当時の社会情勢上国を治める立場からは無理があったため、政治方針を思想自由から引き締めに切り替えていった経緯がある。

特にエカテリーナは、市民が王に代わって政治を取るという主旨のフランス革命には強い関心を示し(反発した)、1791年にスウェーデン王グスタフ3世の提唱した「反革命十字軍」の誘いにも前向きであったとされる。
10月には軍事同盟を締結するが、結成は難航しグスタフ3世が暗殺された事で革命への介入は取り止めとなった。(相変わらずお節介なのはオンナだからか?)



1790年、61歳。
第1次ロシア・スウェーデン戦争で、ロシア艦隊はフィンランド湾でスウェーデン海軍に敗れる。
が、英国とプロイセン王国の仲介により講和し、ロシアの国体には何の影響も及ぼさずにすんだ。
(戦争に負けても外交上手なのはさすが!)












そうして相変わらず精力的な外交を仕掛けている頃…。

黒海沿岸のクリミアを制圧し新ロシアという国土を開拓したポチョムキンがその地で病に倒れる。

1791年、ポチョムキン、南ロシア遠征中に死去。(享年52歳)
(1790年の死亡説もあり!?)
*この年(1791年)にエカテリーナ2世と大黒屋光太夫が謁見。
女帝のこの晩年の慈悲は、もしかして最愛の愛人を失ったことで気まぐれに善行をしておこうと至ったのでは?とも言われている。
もしかして、日本人の黒い瞳にポチョムキンの面影を見た!?…のかもw



ともかくエカテリーナはその時もう62歳だったが、ポチョムキンの死を知って気を失うほど嘆き悲しんでいる。
失って改めて、代わる者のない最高のパートナーを失ったと知ったのだ。
その南ロシアの街に建てられていたポチョムキンの銅像はソ連時代はレーニン像に変えられていたが、ソ連崩壊後は市民によってまたこのポチョムキンのものに建て替えられているらしい。

その南ロシアの美しい街こそが、エカテリーナとポチョムキンの作り上げた愛の形そのものだったと言われていた。(山口智子の番組でwどこの街だったっけ?)








しかーし。
愛するポチョムキンを失っても、女帝の貪欲な政策は続いた…。


1793年、64歳。
ロシア軍を派遣して圧力をかけ、ポーランドの第2回分割を行う。



1793年、64歳。
雑誌「ロシア演劇」をめぐり女帝と対立したダーシュコワ夫人は、ロシア・アカデミー総裁辞職を願い出る。
フランス革命による思想の影響を懸念して、エカテリーナは思想統制をはかり、関連図書の焚書を命じていた。
女帝は自由思想に心酔した一面、農奴制の強化に努めている。
農奴制があってこその貴族国家の最盛期を現出したのだ。

1765年
「農奴を徒刑にする権利の地主への賦与」

1767年
「農奴が地主を告訴することを禁止」


などの政策を遂行、1767年に法典編纂委員会を召集し行政上の改革も行い、より絶対王政の強化を行っている。
そのため市民が政治を行う旨のフランス革命の波及をひどく憤慨し反発したのだ。
これが自由思想主義のアカデミー長官ダーシュコヴァ夫人との決裂を呼ぶ。




1994年、65歳。 
エカテリーナ2世はダーシュコヴァ夫人に対して休暇を勅許する。
(女帝65歳、夫人50歳。とうとう二人も思想の差から長年の友人関係も終焉を迎える)



1795年、66歳。
10月、ポーランドで起こった反ロシアの暴動で、ロシア・プロシア・オーストリアが鎮圧の目的で攻め入り、結果として第3回ポーランド分割となる。
これによって歴史あるポーランド王国が消滅。
なんなんだろう、このポーランドへの容赦のなさは…。





まだまだやるべきことがあると隠居の気配も見せないまま…

1796年11月17日
エカテリーナ2世(大帝)、67歳で崩御。
エカテリーナ2世

波乱万丈のオンナの一生がここで幕を下ろした。







その後…

女帝は後継者に孫のアレクサンドル1世を指名していたとされるが、母帝を嫌悪する息子パーヴェル1世が皇帝となり、その後この母帝の政策を全否定する政治をとるのだった。
その後パーヴェル1世は、ダーシュコヴァ夫人を正式に解任させ、ノヴゴロド県の息子の所領に蟄居するよう命じている。




1801年
女帝崩御からわずか5年後、そのパーヴェル1世が暗殺され、アレクサンドル1世が即位する。
祖母エカテリーナを尊敬していたアレクサンドル1世は、ダーシュコヴァ夫人の復帰を要請するが、ダーシュコヴァ夫人は高齢と健康状態を理由に固辞している。



1801年、7月。
女帝亡き後、ダーシュコヴァ夫人は最高女官長としてアレクサンドル1世の戴冠式に列席し見届けた後、公職から退く。
その後は、雑誌「啓蒙の友」にロシヤンカ(ロシア女)のペンネームで寄稿する傍ら、造園をもっぱら趣味としたそうだ。



1810年 
1月4日、エカテリーナのよき理解者であり、ロシアの学問・教育に貢献したダーシュコヴァ夫人もこの世を後にする。(享年66歳)











*参考サイト*
★【エルミタージュ美術館公式サイト日本版

★【ヨーロッパの歴史風景】 →「近世編」参照。

★【西洋史の美女悪女

★【「ヨーロッパの歴史風景」ヨーロッパの歴史を旅するサイト

★【女帝エカテリーナ

★【露西亜彷徨!?記 第弐篇】 (ロシアの旅行紀、おもしろいです!)

★【オーロラ(AVRORA)】 →「ロマノフ朝の栄華」より

★【映画史上最も有名な6分間『戦艦ポチョムキン』

★【クリミア・ハン国についての日本語のサイト】林しゅんすけさんのサイト。

★【日立 世界不思議発見!】「ロシアより愛をこめて 女帝エカテリーナの秘密」

★【念願のロシア旅行

★【ロシアを見て来た最初の日本人・大黒屋光太夫

★【世界史講義録・ロシアの台頭

★【ロシア旅行記

ロシアの歴史のほんの一部を駆け巡ってみました。w
うーん、人間の一生を追って眺めると歴史っておもしろいもんですね!

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