小さなお茶会 ~じるこん堂へようこそ~

匂いの迷路をひげの指すとおり進めば 少々思わぬことに出くわしても辿りつける…らしい。

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映画『FASTER』 簡単なキャスト紹介 

めんどくさいのでwikiメモ。でもメモだけなのに萌えた燃えたわ。
=キャスト=

ヴァレンティーノ・ロッシ(Valentino Rossi : 1979年2月16日生まれ)

バレンティーノ・ロッシ自叙伝(日本版) バレンティーノ・ロッシ自叙伝(日本版)
バレンティーノ ロッシ (2006/09/06)
ウィック・ビジュアル・ビューロウ

*詳細を見る

イタリアのウルビーノ出身。
愛称は「バーレ」(日本人的にはバレ?)
ザ・ドクター」(路面状況や天候に合わせたバイクの絶妙なセッティングやトラブルに対する的確な判断ができることから)
ろっしふみ」(ノリックに憧れていた少年時代に阿部典史(のりふみ)をもじってつけたあだ名)など。
現在「FIAT YAMAHA TEAM(フィアット・ヤマハ・チーム)」所属。
ロードレース世界選手権参戦以来11年間で7回のワールドチャンピオンを獲得、 「史上最強のライダー」 とも言われている。

アプリリア在籍時代(125cc・250cc)=
1996年(平成8年)
イタリア選手権チャンピオンとしてロードレース世界選手権125ccクラスにアプリリアから17歳でデビュー、チェコGPで初優勝を遂げる。
この頃は当時125ccクラスを席巻していた日本人ライダーら(青木治親坂田和人上田昇など)に親しく接し、現役チャンピオンだった青木治親はロッシによくアドバイスを与えていたという。
後に彼は

「あんなに強くなるんなら教えるんじゃなかった」(´Д`;) 

といった旨のコメントをしているw


あの頃のロッシってほんとカワユイ女の子みたいだったからなー、ついつい教えちゃったんだろうなぁ。
そんなロッシも、後にとあるレースの優勝争いの場面で「ブロックすれば勝てるのは分かっていたけど、正々堂々と戦いたかったんだ」と後方から来るライダー(チームメイトでもあったオリビエ・ジャック)をブロックせず、ゴール直前で抜かれて2位に甘んじた日本人ライダー(中野真矢またの名を王子)のレースを観て、

中野はバカだ!あんな場面でみすみす自ら勝利を逃すなんて、レーサーとしてありえない甘ちゃんだ」

なーんて辛辣にコメントしたりしておりまつ_| ̄|○ililil。
でも、私は日本人だから中野のあの時の気持ちや選択もイタイほどよーく分かるんだよ…。
あのレースで、「ああ、王子ってほんとに王子だったんだ」とある意味感動しちゃったんだもん。
中野はレーサーとしても小鹿のようなつぶらな瞳を持ったままのまさに王子そのものだったけど、ロッシは天使の顔した悪魔なレーサーだからな…。

1997年(平成9年)
18歳で11勝を上げ初のチャンピオンに輝く。

1998年(平成10年)
19歳で250ccクラスにステップアップ。
同じアプリリアの先輩である原田哲也ロリス・カピロッシが展開するチャンピオン争いに割って入り、ランキング2位。
(この年のレースはロッシよりも原田命!カピのばかぁーーー!)

1999年(平成11年)
2人の抜けた年、ホンダの宇川徹を下してチャンピオンになる。(20歳)

ホンダ在籍時代(500cc・MotoGPクラス)
最高峰500ccクラスにステップアップするにあたり、ホンダに移籍することを決断。
ホンダはロッシを迎えるにあたり、ロッシ用チーム、「ナストロ・アズーロ・ホンダ」を結成。500ccルーキーとしては破格の待遇を受ける。

2000年(平成12年)
500cc参戦初年度、ロッシは最新型ホンダNSR500を駆り大いに注目を集めたがシーズン序盤は慣れぬマシンに戸惑い転倒が目立った。
シーズンが進むにつれ安定感が現れ、中盤のイギリスGPで初優勝。
終盤のリオGP(ブラジル)でも優勝し2勝でランキング2位を獲得。
また、日本メーカーであるホンダに移籍したことからロッシが出場を望んでいた鈴鹿8耐にも参戦。
コーリン・エドワーズとのペアで挑んだがリタイアに終わる。

2001年(平成13年)
500ccクラス2年目、22歳で11勝を上げ圧倒的な強さでチャンピオンを獲得し3クラス制覇の偉業を成し遂げる
(全て参戦2年目での達成!)
開幕戦日本GP(鈴鹿)ではホンダのWGP通算500勝目を記録、また前年と同じ体制で挑んだ鈴鹿8耐では優勝するなど、ロッシがロードレース界に君臨した年であるといえる。

2002年(平成14年)
最高峰クラスが500ccクラスからMotoGPクラスに移行。
この年、ワークスのレプソル・ホンダに加入。
ホンダが新たに投入した4ストロークマシンRC211Vを駆ったロッシはまたしても11勝を記録しチャンピオンになる。(23歳)

2003年(平成15年)
ライバルのマッシミリアーノ・ビアッジ(マックス・ビアッジ)が同じホンダ(サテライトチーム)に移籍してくる。
(同じチームでもライバルはライバル!?)蓋を開けてみれば9勝を上げまたしてもチャンピオン獲得。(24歳)
最終戦バレンシアGPで2004年からのヤマハへの移籍を発表した。


=ヤマハ移籍~現在=
2004年(平成16年)
当時常勝を誇ったホンダからMotoGPクラス開始以来2勝しか上げていなかったヤマハに優勝請負人として移籍。
ヤマハも過去2年間で培った技術を元に新開発エンジンを投入、またロッシの希望からホンダ時代のエンジニアであるバージェスをホンダから引き抜きロッシと「2人3脚」でマシン(2004年型ヤマハYZR-M1)を開発。

2004年の開幕戦、南アフリカGPでロッシは予選でポールポジションを獲得、決勝でもホンダのエース・ビアッジとの激しい優勝争いを展開。
激闘の末、見事ロッシは移籍初戦を優勝で飾りウィニングラップで感動のあまり号泣しマシンにキスをした。(と報道されたが、自叙伝では

「メットの中で大笑いしていたのさ!」

と語っている)
…負けず嫌いなのよw
でもほんとに泣いているように見えたけどなぁ。

その後もロッシはホンダ時代と変わらない強さを見せ、9勝でチャンピオンを獲得。
優勝請負人としての仕事を果たしてみせる。
ファンや関係者からは「ホンダやヤマハが強いのではなく、ロッシとバージェスのコンビがいるところが強いのだ」といった感想さえ聞こえたほど。
事実、この年ヤマハはロッシの他に3人のライダー(※カルロス・チェカ、※阿部典史(ノリック)、マルコ・メランドリ)が同じ年式のYZR-M1に乗っていたが誰も1勝さえ上げていない。
それほどまでにロッシの強さは際立っていた。
※は優勝経験者(当時)

2005年(平成17年)
11勝でチャンピオンを獲得。
これで2001年から続く最高峰クラス連覇を「5」とし、1994年~1998年に500ccクラスを5連覇したマイケル・ドゥーハンの記録に並ぶ。(26歳)

2006年(平成18年)
記録を「6」に伸ばすべく同じくヤマハで戦ったが、開幕から不運が続き例年にない苦しいシーズンとなり、苦労の末ポルトガルGPでようやくランキングトップに躍り出たものの続く最終戦バレンシアGPで転倒、6年連続チャンピオン獲得とはならず。
2005年~2006年オフシーズンにフェラーリF1チームのテストに参加、2007年からのF1転向が噂されていたが6月にヤマハ残留を発表。(27歳)

2007年(平成19年)
2月には2008年までの契約延長に合意。(28歳)
ヤマハチームは2007年から2008年までフェラーリの資本の85%を所有するフィアットのスポンサーシップを受けることとなったが、これに関してロッシ自身はF1への転向とは無関係であると表明している。

by wiki1より



なんだかんだで昔はふわふわしたクルクル巻き毛で女の子みたいにキュート!!だったロッシもすっかりいい歳した貫禄ある大人になってたのだから、私も歳とっとるわけだな…。




マックス・ビアッジ(*本名はマッシミリアーノ・ビアッジ)
(Massimiliano Biaggi : 1971年6月26日生まれ)

マックス・ビアッジ

*マックス・ビアッジ(Max Biaggi)は2001年(平成13年)以後のエントリーネーム。

イタリアはローマ出身。
1994年(平成6年)~1997年(平成9年)
ロードレース世界選手権250ccクラスで4連覇している。

1997年(平成9年)
250cc連覇時代には「アプリリアのワークスマシンに乗っているから速い」と言われていたが、ホンダに移籍後ホンダRC211Vで参戦、ビアッジにかわりアプリリアに移籍した原田哲也を抑えチャンピオンを獲得。(26歳)

日本では原田哲也の敵役であった事もありアンチファンも多く(そんなんばっかりだなビアッジよ…´д`;)、実際不仲だとも言われる。
が、その原田哲也の引退(*2002年:平成14年の最終戦にて表明)を聞いた時は涙を流し、最終戦後に行われた原田の引退記念パーティにひょっこり姿を現し原田に感謝の意を述べたりしている。(ビアッジ:31歳)

★参考【泣ける話・感動した話@モータースポーツ】より
132 :音速の名無しさん :2005/06/27(月) 23:33:11 ID:ark/QiBN
引退会見ネタをもうひとつ…

かつての250ccチャンピオン、原田哲也の引退会見
緻密なライディングと独特の言動から、
コンピューター」「アイスマン」など内外のプレスから評されてきた彼だったが
さすがに会見の最後には言葉が詰まりだした
シャッター音だけが響き渡り、誰一人言葉をかけることができない

そのとき、会見場の最後部から拍手がおきた

マックス・ビアッジだった
何度もコース上でマシンをぶつけ合い
パドックでも感情ムキ出しのやりとりを何度も繰り返してきた因縁のライバル…
その彼が原田の最後の会見を静かに見守っていたのだ

原田のもとに歩み寄ったビアッジが、ポンポンと肩をたたくと
”アイスマン”の目から大粒の涙がこぼれた


実際は気さく且つ義理堅いところもあり、日本に来た際には故・加藤大治郎の家族を気にかけている
30代になって尖った部分がだいぶ丸くなった実は良い人
(ほんとにそんなのばっかりだなぁビアッジよ…´д`もう笑)


1998年(平成10年)
ロードレース世界選手権500ccランキングでは2位。
(「マルボロ・チームカネモトホンダチーム」にて)

1999年(平成11年)~2002年(平成14年)
ヤマハの「マルボロ・ヤマハチーム」に所属。

2003年(平成15年)~2004年(平成16年)
ホンダの「キャメル・プラマック・ポンスチーム」に所属。
成績は上位をキープし続けるもMotoGPクラスではとうとうチャンピオンになれず。

2005年(平成17年)
この年限りでMotoGPでの活動を一旦打ち切る。
MotoGP最終ランキングは5位に終わる。(所属はホンダのレプソル・ホンダチーム)
*この年はロッシが最高峰クラス5連覇の偉業を成し遂げた年なのだ…。(34歳)

2007年(平成19年)
スーパーバイク世界選手権にスズキ・アルスターチームから参戦。
デビュー戦でいきなり優勝という快挙を成し遂げ、以後もコンスタントにポイントを重ねている。(がんばれ!36歳!)

by wikiより


★参照【HONDA[WGP]マックス・ビアッジ




ケニー・ロバーツ(Kenny Roberts 1951年12月31日生まれ)
アメリカ、カリフォルニア出身。
言わずとしれたヤマハのエースライダーでニックネームはキング・ケニー

1978年(昭和53年)
WGPフル参戦初年度から3年連続500ccチャンピオンという偉業を成し遂げる。
アメリカとヨーロッパの両選手権を制した史上唯一の選手であり、WGPにおいて初のアメリカ出身のチャンピオンでもある。

1983年(昭和58年)
WGP最後のシーズンはフレディー・スペンサーと歴史にのこる激戦を繰り広げ、僅差で王座を逃した。
この年を最後にWGPからは引退。

1985年(昭和60年)、1986年(昭和61年)
鈴鹿8時間耐久ロードレースなど、その後もいくつかのレースには参戦。

特に1985年(昭和60年)の鈴鹿8耐の平忠彦組は、伝説のライダー国内スターライダーの組み合わせとなり大きな話題となった。


当時はあまり興味がなかった…つーかレースをまだ観てない頃。




バリー・シーン(Barry Sheene MBE 1950年9月11日 - 2003年3月10日)
イギリス出身。

ゼッケン7とヘルメットのドナルドダックがトレードマーク。
ロードレース世界選手権23勝(GP500:19勝、GP125:3勝、GP50:1勝)。
MotoGP殿堂入りライダー。
1974年(昭和49年)
スズキと契約。

1975年(昭和50年)
アメリカのデイトナスピードウェイで250km/h以上のスピードで転倒(タイヤトラブルが原因と言われる)。
瀕死の重傷を負ったものの、同年末には世界GPレースに復帰して500ccクラスで初優勝を遂げる。

1976年(昭和51年)~1977年(昭和52年)
スズキのワークスマシンRG500に乗り、ロードレース世界選手権GP500ccクラスのチャンピオンになった。
チャンピオンはゼッケン1を付けるのが慣例だが、シーンはチャンピオン獲得時のゼッケン7にこだわり、その後もそれをトレードマークにし続けた。

1980年(昭和55年)
スズキを離れヤマハと契約。
当時ヤマハのエースだったケニー・ロバーツに対抗し、イギリスGPの練習走行で転倒していたマシンに激突してまたも瀕死の重傷を負い夢が絶たれる結果となった。

1984年(昭和59年)
スズキに戻るもこの年限りで世界GPを引退する。

ゼッケン7はブリティッシュスーパーバイク選手権永久欠番となる。
英国王室より大英帝国勲章(Member of the British Empire)を授けられた。

サイドカークラスを除くと、現在のところWGPで世界タイトルを獲得した最後のイギリス人ライダー。
ライダーとしての実績が高かっただけではなく、ファンやマスコミに対して積極的なピーアール活動を行い、モーターサイクルレースの魅力を世に知らしめることにも熱心だった。
その結果、映画や音楽のスターと同等の人気と知名度があった。

晩年はオーストラリアへ移住(イギリスの所得税の高さに辟易していたためだという)。

2003年(平成15年)
食道癌によりゴールドコースト市内の病院で死去(52歳没)。
生前はヘビースモーカーだったと言われ、それが癌の原因と見られている。

by wiki






ケヴィン・シュワンツ(Kevin Schwantz 1964年6月19日生まれ)
ケビン・シュワンツ

アメリカ、テキサス州ヒューストン出身。

1993年(平成5年)
ロードレース世界選手権500ccクラスチャンピオン。
1988年(昭和63年)から1995年(平成7年)までの8シーズンでGP通算25勝を記録した。
ニックネームはフライング・テキサン。(笑)


つーか、「二輪のライダー」として「おもしろいなぁ!」と初めて意識して見始めたライダーがこのシュワンツだった。
そもそも初めて見たレースが鈴鹿8耐だったわけだが、最初の感想は

「…えーと、


 …

 みんなで同じようにぐるぐる同じトコロ周ってるの観てて何が楽しいの…?」


ってもんですよ(爆)
そんな中でも同じようなスーツ着て、同じようなバイクに乗って、同じようなルートで走り去るライダーたちの中で、異色に見えたラインディングがありまして、しかしその頃ライダーの名前やチームの違いなども分からず、はしゃいで言ったのが

「あの○○色のバイク、おもしろい~♪」

というアホな感想でした。(あ、今もあんまり変わってないかも…)
しかも当時はロクにバイクにも乗っていず、自転車に乗りながら「シュワンツッ!!」「レイニーッ!!」とか叫びながら田んぼ道をバンクしながら駆け抜けていたりして。
今考えるとかなりイタイ女だった自分を思い出してしまった…。たはは。

正直ラインディングだのマシンの性能の違いなどさっぱり分からなかったけれど、

シュワンツの走りはおもしろい!!」ヾ(´∇`)

というのだけは分かり惹かれた。
なんというかー、分かりやすかったんだな彼の走りは。
勢いで突っ込んでいって、乗れてるときは速くてすっげーカッコイイ!
めちゃくちゃな部分もあったりするのだけど観ていると自然とわくわくさせられた。
でも勢い余って転倒することも多くて、肝心なところで勝利を逃がしてボー然とするところもあって、そこがまたなんだか憎めない不思議なライダーキャラだったなぁ。




ウェイン・レイニー(Wayne Rainey 1960年10月23日生まれ)
ウェイン・レイニー

アメリカ、カリフォルニア州ダウニー出身。

元レーサーで、元チーム監督。
1980年代末~1990年代初めにかけて最も成功したロードレーサーの一人。
1990年(平成2年)~1992年(平成4年)のロードレース世界選手権(WGP)500ccチャンピオン。
ケビン・シュワンツとのライバル関係はよく知られ、

「レイニーが、どんなレースの際でも常にシュワンツとの差のみを表示させていた」

との逸話も残るほどだという。

1983年(昭和58年)
カワサキライダーとして国内メジャータイトルAMAスーパーバイク選手権のチャンピオンを獲得。

1984年(昭和59年)
引退したケニー・ロバーツのチームからWGP250ccクラスに参戦するが、このときはチーム体制の不備もあって活躍の無いまま、翌年AMAスーパーバイクに戻る。

1987年(昭和62年)
2度目のチャンピオンを獲得(所属はホンダ)。

1988年(昭和63年)
再びチーム・ロバーツに加入。
今度はWGP500ccクラスにフル参戦、イギリスGPで初優勝を達成する。

1989年(平成元年)
早くもチャンピオン争いを演じるが、王者エディ・ローソンとの一騎打ちで痛恨の転倒を喫し、この年はランキング2位に甘んじる。

1990年(平成2年)
他を圧倒しランキング2位のシュワンツに68ポイント差をつけて初タイトルを獲得。

1991年(平成3年)
マイケル・ドゥーハンとの争いを制し、2年連続でタイトルを獲得。

1992年(平成4年)
ドゥーハンを破り、ケニー・ロバーツ以来となる3年連続のタイトル獲得を果たすこととなる
連覇最後の年となったこの年は、ドゥーハンが負傷により欠場している際にポイント差を逆転、最終戦で僅か9ポイント差で決定という最も苦しんでのものだった。

1993年(平成5年)
レイニーはGPの中心となり、開幕から最大のライバルであるシュワンツと激しいチャンピオン争いを繰り広げていた。
第11戦チェコGPで優勝した時点でランキング2位のシュワンツに11ポイント差をつけており、レイニーの4連覇は目前と考えられていた。
しかし、ミザノ・サーキットで行われた第12戦イタリアGPにてトップ走行中に高速コーナーでハイサイドを起こし転倒。
マシンから放り出された身体は頭部からグラベルに落下、第六頚椎損傷の重症を負ってしまう。
これによって、胸から下の身体の自由を失って再起不能となり、キャリア絶頂期のなか突然の引退を余儀なくされた。

レイニー不在で迎えた第13戦アメリカGP。
500ccクラスライダーの記念撮影では

WAYNE WISH YOU WERE HERE
(ウェイン、君がここにいてくれたなら・・・)

というプラカードを前に撮影、ポールポジションのドゥーハンはグリッドでそのプレートを掲げレイニーの復帰を願った。
またランキング2位につけていたシュワンツは、順調にポイントを重ねレイニーを逆転、争うべきライバル不在の中でタイトルを獲得することとなる。
だが、サーキット上でレイニーを打ち負かすことに至上の喜びを求め続けたシュワンツは、自身初のタイトルにもかかわらず

「彼の怪我が治るならタイトルはいらない」

と発言するほどに落ちこみ、以降モチベーションを低下させていく。
(こーゆーところがシュワンツのおもしろいところだったりもするの…)


=引退後=
1994年(平成6年)
レイニーは半身不随という境遇に挫けず不屈の意志でリハビリに励み、事故翌年にはマルボーロ・ヤマハ・チーム・レイニーを立ち上げ、車椅子でレース現場に復帰した
日本人では原田哲也阿部典史が走ることとなった。
その監督業も1998年(平成10年)をもって退任したが、レイニーに敬意を示すライダーは現在も多い。






ロリス・カピロッシ(Loris Capirossi 1973年4月4日生まれ)
イタリアボローニャ出身。

ロードレース世界選手権デビューした1990年(平成2年)から2年連続GP125ccクラスチャンピオンを獲得。
1998年(平成10年)、世界選手権WGP250ccクラスチャンピオン。(*この時のレースは今でも忘れられん。悪い意味で)

現在はドゥカティワークス・チームのエースとして、MotoGPクラスに参戦。


個人的には「カピ」と呼んでいる。
私の中ではこいつこそ「敵役」そのもののレーサーというイメージがある。
闘争本能丸出しの走りは見ていておもしろいんだが、やたらと日本人ライダーの重要なレースの場面で絡んできて転倒したり、ひとりで転倒するならまだ許せるが、巻き込んできたりするのでレース後に「カピ~!許すまじ~!!」と恨みたくなるのだよー。きー!
以下は原田哲也wikiより抜粋。
原田視点で見るカピは 悪 者 そ の も の です。

1997年(平成9年)
原田哲也はビアッジの後釜としてアプリリアのワークスライダーの座に就く。

1998年(平成10年)
チームメートのロリス・カピロッシや若きヴァレンティーノ・ロッシをも翻弄する円熟したレース運びで序盤のアドバンテージを築きあげたシーズンは、グランプリ史上とりわけ印象深い。

このとき転倒による骨折が仇となり、最終戦のアルゼンチンGPを残してカピロッシにポイントリーダーを明け渡した。
それでもここで原田が先行し、2位以上に入りさえすればシリーズチャンピオンとなれる条件のもと決勝に相応しい白熱したデッドヒートを展開。
最終ラップでロッシに次ぐ2位を確保して遂に5年ぶりのタイトル奪還を目前に手繰り寄せた。

ところが、

最終コーナーでカピロッシの意図的ともいえる無謀な突っ込みを喫し、コースからはじき出されるというまさに今シーズンを象徴するようなアクシデントが起こった。
転倒直後起き上がった原田が、グラベル上でこぶしを振るい怒りをあらわにした様子が当時の中継でもはっきり映し出された。

結局このレースを失格してチームを追い出されたはずのカピロッシに初の年間タイトルがもたらされ、一方リタイアした原田はポイント上ロッシにも抜かれ3位に後退するという後味の悪い結末となった。
その無念のあまり

ビアッジは大嫌いだがレースの中ではクリーンだった

あんなこと(故意にぶつけてきたカピの行為)をしてまでチャンピオンが欲しいなら、そんなもの(汚い手で手にするチャンピオンなんか)奴にくれてやる!


とまたしても名言を残したほどである。

普段クールデビルと呼ばれる男の、その稀に見る激しい言動はレースに対する職人肌ともいえる信念や熱意の表れでもあった。


これ↓がそのときのシーン。



きぃ~~!!もう10年も前のレースだがやっぱり許されんカピロッシめ~。
原田はもう許してるみたいだけど、あの時のあんたはほんと最悪やぞ!
この頃のことは当時の雑誌にも取り上げられていて、その時の雑誌記者のコラムが印象的だった。

チャンピオンを逃した悔しいレースの後、記者はバーかなんかで沈んでいる原田をこんな感じで慰めていた。

「ひどいレースだったね。
あんなことをしたカピロッシが優勝なんて納得できないよな!(プリプリ)
元気だせよ原田! チャンピオンは逃したけどみんなの記憶に残っているのは君の走りの方だよ」






沈んでいた原田が静かにこう答えた。

「記憶は時間が経てばいつか薄れる。

残るのは…記録なんだ







個人的にはやっぱ原田哲也とかドラマのキャラとしては面白いと思う。

クール&デビルライダー原田哲也

そうそう、こんなエピソードもあるぞ。
原田はその昔チャンピオンになったレース後のインタビューで日本語でその喜びを興奮して語り始めたのだが、司会者に

「(日本語じゃわからん)英語でしゃべろ」

とご機嫌なコメントの最中に無粋にさえぎられて、

「英語がしゃべれないわけじゃない。日本人がチャンピオンになったのはめったにない名誉なことで、この喜びを応援してくれている母国の人々に一番最初に伝えたいだけだ」

としごくまっとうに反論した。
しかし「英語が公用語だ、まず英語で言え」としつこく言われぶち切れた。

それが名誉あるチャンピオンにたいする対応なのか!
チャンピオンとはその程度の軽々しい存在なのか?
世の中には英語をしゃべらない人間だって大勢いる。
もし僕がイタリア人でイタリア語しかしゃべれないチャンピオンだったとしてもキミは同じことを言ったのか!?

というような言葉で反論したと記憶している。
(当時の雰囲気から、東洋人相手だから平気で口をはさんできたんだろう?という意味だと思われた)

…しびれたね。
声は甲高いけどw、彼は誇り高いライダーだった。
原田に英語を強要した司会者はたしかに一見まっとうな要求をしているようにもみえる。
だけど、あの場であのタイミングで口を挟むのはレースを勝ち抜いたチャンピオンに対する侮辱以外のなんでもないと今なら私もすぐに思うだろう。
実際あの司会の言葉には敬意というものがまったく感じられなかった。
そして、それは当時の私がなんとなく感じたように「日本人」(東洋人)に対する侮辱でもあったと思う。
原田はそんな空気を瞬時に真っ向から迎え撃った。
レースもカッコよかったが、私はあの時の原田の精神に惚れた。





そ し て 、

原田はそれ以来表彰台にあがるレース後のインタビューコメントを す べ て イタリア語で答えるようになってたwwwwwバロス!!

「イタリア語でしゃべっている人間に英語で話せ!といえるもんなら言ってみやがれ」って感じ?
司会者も「…」て感じだったのが今でも忘れられませんw


とまあ、原田の走り(人間性)にはさまざまなドラマを感じるんだ。
だから多くのファンを魅了したんだと思う。
その原田の逸話をとあるヒトの視点からもうひとつ紹介しよう。



たしか1993年のスペインだったと思う。(唯一WGPをみてた年かな)
250にあがったばかりの有望株で活躍が期待されてた若井が予選中にコースに乱入してきた観客をよけて壁に激突
その日のうちに病院で亡くなったんだけど、その本戦での親友原田の走りがすごかった。

コーナーでテールスライドさせながら切れた走りで2位に20秒以上の差をつけて優勝。
その時はテレビの前でマジ泣きましたね。

…あれからもう10年経つんだなぁ。


この話をしてたときは、ちょうど大ちゃんが亡くなった年ですっごく落ち込んでた時だったと思う。
でも原田のそんなエピソードにちょっと救われたりもしたんだよね。


=原田哲也の概略=
ヤマハのワークスライダーとして全日本GP250で活躍。

1992年(平成4年)
Hondaのワークスライダー岡田忠之とシーズンを通しての激戦の末に初めてのチャンピオンを獲得。

1993年(平成5年)
この年から世界GP250にフル参戦を開始。
開幕戦オーストラリアでGP初優勝を遂げると、その後もまったく知らないGPサーキットであるにもかかわらず抜群のポテンシャルを発揮。
そして最終戦でポイントリーダーのロリス・カピロッシを逆転すると劇的とも言える世界チャンピオン獲得となった。
その後、アプリリアのワークスライダーを務める。

1999年(平成11年)
500ccクラスに転向。

2001年(平成13年)
再び250ccクラスに戻ると、加藤大治郎という新しい天才と好勝負を演じた。

2002年(平成14年)
Hondaの有力サテライトチームに移籍しチャンピオンマシンNSR500を獲得。
そしてこのチームが原田の現役最後のチームとなった。
ヘルメットに記されるデビルマークは原田のトレードマーク。
マシンを降りたときのクールな原田と、レースで見せるアグレッシブなライディング、その違いが彼の高い人気の秘密である。

by★【ツインリンクモテギ:「D耐!」2007年4月29日ファイナルイベントレポ】より



うおっ!!
その原田が今年レースに出とるじゃないの!
しかもカズート(坂田和人)もおるがね!

おぉう!ああぁあぁああああぁぁぁぁん!このレースは観に行きたかった!
いいなぁ栃木県民…。
ツインリンクもてぎのイベントって遠いんだよう。






あ、肝心な映画の監督のこと忘れてた…。
しかもあの映画『FASTER』には原田は登場していない…かも…?

監督マーク・ニール

この監督のマーク・ニールさんは二輪のレースがスキなのかもう一本レース映画撮ってます。

Turn 8 ラグナセカの青い空 Turn 8 ラグナセカの青い空
バレンティーノ・ロッシ、コーリン・エドワーズ 他 (2006/12/22)
ナウオンメディア株式会社

*詳細を見る





監督~、原田を使え原田を!

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