小さなお茶会 ~じるこん堂へようこそ~

匂いの迷路をひげの指すとおり進めば 少々思わぬことに出くわしても辿りつける…らしい。

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ルネさんの時代 ② 

ルネさんは、一時花の都、文化の中心とも言われたパリに上京(?)しますが、パリのシュルレアシスムとは相容れなかったようです。
いまでこそ、世界中で愛されやまないルネさんの摩訶不思議な絵ですが、野獣派などに傾倒している頃は、パリで全く冷淡な反応しかなく、その後シュルレアリスムの活動の差異からほどなくフランスを去っています。
そして、ほとんどベルギーという国から出ることなく画家として活動しました。
そんなルネさんの69年間を簡単になぞってみましょう。

ベルギーの地図参照




【ルネ・マグリット簡易年譜】

1898年 (誕生)
11月21日、ルネ=フランソワ=ギラン・マグリットはベルギーのエレン州の町レシーヌに生まれる。父は事業家で紳士服商を営んだ。ふたりの弟レイモンとポールのうち、ポールは詩と音楽に才能を見せる。
後にポールとは一時共同で「ドンゴ工房」(デザイン広告などの仕事)を開き、ポールが営業、ルネさんが製作を請け負うデザイン的な仕事をこなした。

1898年 (1歳)
一家でジリに移る。6歳までこの町にいたようだが、この頃ソワニーという町からの帰り道に墓場で製作する絵描きを見たという話が印象に残っているようだ。

1904年 (6歳)
一家でシャトレに移る。

1910年 (12歳)
地元の画塾で最初の絵の手ほどきを受ける。

1912年 (14歳)
母ジレナがサンブル川で入水自殺し、数週間後に顔を寝間着で覆った姿で発見される。
マグリット・母の心臓

 後年に描かれた【母の心臓】と題された作品。


1913年 (15歳)
父と弟らとシャルルロワに移る。ここで未来の妻ジョルジェット・ベルジェ(1901-1987)当時12歳と出会う。1年で一家はまたシャトレに戻るがルネさんはシャルルロワの高校に3年間通った後、デッサンと絵画の個人授業を受ける。

1916年 (18歳)
ブリュッセルの美術学校、アカデミー・デ・ボサールに入学。しかし、象徴主義アール・ヌーヴォーの授業に失望したとされる。家族もブリュッセルに移る。

1919年 (21歳)
雑誌『7芸術』の主催者で詩人のピエール・ブルジョワ、のちの抽象画家ヴィクトール・セルヴァランクス、一時アトリエを共有した親友ピエール・フルーケら若い前衛芸術家らと付き合う。この時期、キュビズム未来派、アントワープの前衛芸術家デ・ステイルを知る。ブルジョワらと共に雑誌『ハンドルをとれ!』を発行。表紙画を手がける。以後多くの自他の雑誌発刊に携わる。

1920年 (22歳)
1月、ブリュッセルのポスター展、ジュヌーヴの国際現代美術展に出展。この頃E.L.T.(注:エブリリトルシングではない)メセンス(詩人・画家・音楽家)と知り合い、彼の知るサティツァラの影響でダダに興味を持つようになる。

1922年 (24歳)
1920年にジョルジェットとブリュッセルで再会し、結婚。生活のためセルヴェランクスの紹介で壁紙工場のグラフィック・デザイナーとして働く。彼らは共同で『純粋芸術 美学の擁護』を執筆。当時の絵はキュビズム、未来派、ドローネーレジェの影響を色濃く受ける。

1923年 (25歳)
この頃ジョルジオ・デ・キリコの【愛の歌】の複製を見て衝撃を受ける。(見せたのはマルセル・ルコントからという説と1925年以降にE.L.T.メセンスからという説がある)ルネさんは感動のあまり涙をこらえきれなかったという。
デ・キリコ・愛の歌

 




 ジョルジオ・デ・キリコの【愛の歌】
 …の絵を使った美術館の宣伝ポスター(1983年のもの)。
 
 余程感動したのでしょう。 
 
 


芸術とは目に見えるかたちでは現れない何か、の表現であり
「絵を見る者が自分の孤独を再発見し、世界の沈黙に聞き入る新しいヴィジョンが重要である」
と考え始め、「幻想的で形而上学的な面」を目指してシュルレアリスムの方向へ歩み出すきっかけとなる。文豪カミーユ・グスマンと出会う。

1924年 (26歳)
壁紙工場を辞め、自身が馬鹿げていると嫌うポスターや広告のデザインで生活する。しかし、このデザイン広告の仕事が、彼のその後の絵の構成に影響を与えていると考えられている。
翌年にかけ婦人服店「ノリーヌ」のカタログのためにグワッシュを描く。初めて絵が売れるピカビア主宰の雑誌『391』に作品を発表。メセンス、ルコント、グーマンスらとダダの雑誌を作る。後にメセンス以外はヌジェの『コレスポンスダンス』に参加。

1925年 (27歳)
芸術観の転回点が訪れ、マックス・エルンストの作品に触発された、片手と一羽の鳥を描いた小品【窓】が「自分の最初の絵」となる。メセンスと共同でダダイズム雑誌『食道』を発行。1925年以降、舞台装飾の仕事も手がけており、その装飾性が絵の構成にも現れてくる。

1926年 (28歳)
成功した最初のシュルレアリスム的作品とする【迷える騎馬騎手】(迷える騎手、消えた騎手とも訳がある)を製作。ルネさんは
「もはやはっきりとした細部を伴うものしか描くまい」
と決意する。ブリュッセルのル・サントール画廊およびP.G.ヴァン・エリック(画廊の運営者)と契約を結ぶ。徐々にベルギー・シュルレアリスムを盛り上げていく。エリックの妻の店・ブリュッセルの婦人服店「ノリーヌ」の宣伝ポスターなども手がける。

1927年 (29歳)
初個展がル・サントール画廊で開催され、49点の油彩と12点のパピエ・コレが出品されるが失敗。旧友フルーケも批判的文章を発表する。9月、夫人と共にパリ郊外のペルー=シュル=マルヌに転居。ポール・エルアーリュ、アンドレ・ブルトンホアン・ミロハンス・アルプらフランスのシュルレアリストと親交を結ぶ。後にダリとも出会う。エリュアールとは生涯にわたる友情の始まりでもあり、彼の詩句
「最も暗い眼の中に、最も明るいものが閉ざされている」
はルネさんのお気に入りとなる。3年間のパリ生活中もブリュッセルには行き来する。生涯の友ルイ・スキュトネールと出会う。

1928年 (30歳)
ブルトンの仲間としてパリのグーマンス画廊での「シュルレアリスム展」に参加。100点近い作品を制作。8月、父レオポール死去。
マグリット・恋人たち

 【恋人たち】
 布をかぶせたモチーフは母の自殺によるものと言われている。


1929年 (31歳)
『シュルレアリスム革命』誌第12号に【言葉とイメージ】を発表。
マグリット・これはパイプではない

 《これはパイプではない》と書いてあります。


1930年 (32歳)
ブルトンとの不和により、ブリュッセルに戻る。ジェット区エッセゲム通りに住む。ポール・コネリらと知り合う。当時、この居住区は工場の煤煙がひどく、ルネさんは町並みの醜さをよく嘆いていたとされるが、出不精な性格になってきたのか、旅行もまれで、ほとんど生活の大半をブリュッセルで過ごすようになる。その後1954年まで約四半世紀をここで過ごす。現在、「マグリット美術館」として保存してある。
マグリット・旅の思い出
 【旅の思い出】と題された作品。
 ルネさんにとって旅行とは…?


1932年 (34歳)
ベルギー共産党への最初の入党。

1933年 (35歳)
ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

1934年 (36歳)
パレ・デ・ボザールでのシュルレアリスム展に参加。ブルトンの『シュルレアリスムとは何か』の表紙に【凌辱】が用いられる。
マグリット・凌辱

 【凌辱】わかりやすい?


1936年 (38歳)
ある夜のこと、目を覚ましたルネさんは鳥かごの中に卵があるのを見た。
それは見間違いであったがルネさんは
「驚くべき新しい詩的な秘密」
を手に入れたと感じる。アメリカでの初個展がニューヨークで開催。

1937年 (39歳)
ロンドンに滞在製作および講演を行う。東京での「海外超現実主義作家展」において、初めてルネさんが日本で紹介される。

1938年 (40歳)
アントワープ王立美術館で自伝的な講演「生命線」を行う。

1940年 (42歳)
ドイツ軍進行を避けてベルギーを離れ、フランス・カルソンヌに3ヶ月滞在。

1943年 (45歳)
春頃、翌年にかけての作品がすべて光と喜びに満ちた「ルノワール的」スタイルで描かれ、この傾向は1947年まで続く。7月、その成果をブリュッセルで個展。「陽光に満ちたシュルレアリスム」と呼ばれた描法の変化は、戦時下(第二次世界大戦)のうんざりするような恐怖の数年に対する反動として選び取られた「享楽の望み」からきたという。ルネさんとベルギーの友人たちのこのような姿勢はブルトン以下パリのシュルレアシストからは全く理解されなかった。
マルセル・マリエンヌの『ルネ・マグリット』、ポール・ヌジェの『ルネ・マグリットあるいは禁じられたイメージ』が相次ぎ出版。

1945年 (47歳)
『シュルレアリスムと絵画』第2版の表紙に作品【赤いモデル】が用いられる。ベルギー共産党への最後の入党。しかし運動の試みは幻滅に終わり、数ヶ月後に離党。

1946年 (48歳)
マルセル・マリエンと過激なスカトロジーの小冊子を編集するが差し止められる。ベルギーのシュルレアリストらと共に『陽光に満ちたシュルレアリスム 第一宣言』を発表するが、その楽観主義的見解がブルトンの反感を買い、両者の断絶が決定的となる。
アンドレ・ブルトン
 パリ・シュルレアリストの‘独裁者’とも言われていたアンドレ・ブルトン。両者の仲たがいの引き金になったのは、ブルトンがルネさんの妻ジョルジェットの付けていたネックレスの十字架に難癖を付けたことだったという話もあるが、実際はもっと根が深く、パリとベルギーのシュルレアリスムの気質の違いや、個人的にウマが合わなかったせいかもしれない。


1947年 (49歳)
ルイ・スキュトネールが『マグリット論』を出版。

1948年 (50歳)
パリの初個展(5~6月)に、自身が命名した、野獣派(フォービズム)をもじった「牝牛(ヴァーシュ)の時代」シリーズを発表。この展覧会はパリへの挑戦でもあったが、反応は冷ややかで絵は1枚も売れなかった。友人スキュトネールにも
「半ば気狂い地味た表現主義的な辛辣さ、極悪な色彩法、ひどいデフォルトマシオン」
と批判されている。
ルネさんの挿絵によるロートレアモンの『マルドロールの歌』が出版。画商のアレクサンドル・ヨラスと契約し、ニューヨーク、ジュネーブ、パリ、アテネの画廊で作品が展示される。

1950年 (52歳)
マグリット・光の帝国1

 【光の帝国】シリーズで様々なヴァージョンがある。


1951年 (53歳)
ブリュッセルの王立劇場の天井画を製作。グスタフ・ネラン氏、ルネさんにカジノ・クノックの壁画を依頼する。

1952年 (54歳)
絵葉書やチラシの体裁をした小さな雑誌『写生の葉書』を刊行。(-56年)

1953年 (55歳)
カジノ・クノックの支配人グスタフ・ネランからの注文で、ホールの壁画【魅せられた領域】を製作、完成。この頃よりルネさんの名声が国際的に高まる。
*現在のカジノ・クノック

1954年 (56歳)
ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで最初の回顧展。
マグリット・光の帝国2

 









 【光の帝国】シリーズ。
 この家の前に描かれているクラシカルな街灯は、実際にルネさんが住んでいたアパートのまん前にもあったもの。現在もブリュッセルのジェット地区にある小さな「マグリット美術館」となっている旧住宅の前に、1本だけこの同じ型の街灯が残されている。
 



1955年 (57歳)
マグリット・血は語る

 【血は語る】


1957年 (59歳)
シャルルロワのパレ・デ・ボザールに壁画【無知の妖精】を製作。
マグリット・無知の妖精1

 【無知の妖精】
 …の一部。


1958年 (60歳)
アンドレ・ボスマンスと出会い、長い親交が始まる。彼に宛てて作品の製作過程を述べる多くの手紙を書く。後に彼が編集する雑誌『レトリック』にも寄稿。

1959年 (61歳)
マグリット・ピレネーの教会

 












 【ピレネーの教会】
 この海はルネさんのお気に入りだったという。ベルギー北部の海岸クノック・ヘイストの海、そのまんまです。これから100年後も同じ海の色をしているでしょうか。


1960年 (62歳)
テキサス州ダラスの近代美術館でアメリカで初の回顧展が開催。(ヒューストンに巡回)

1961年 (63歳)
8月、ブリュッセルのパレ・デ・コングレに【神秘のバリケード】を製作。ロンドンでの個展のため訪英。

1962年 (64歳)
マグリット・上流社会

 【上流社会】


1963年 (65歳)
マグリット・大家族

 【大家族】 
 似たようなモチーフで【空と鳥】というのがありますが、これはベルギー・サベナ航空のマスコットイメージとして使用されていたはずなのですが、どうもこのサベナ航空がいつの間にか消えてしまっているようで…。いつか乗りたいと思っていたのに残念(>π<)。



1965年 (67歳)
ニューヨーク近代美術館での個展開催を機に初渡米し、崇拝するエドガー・アラン・ポーの家や、ヒューストンの熱心なマグリット蒐集家ド・メニルを訪問。

1967年 (69歳)
画商の勧めで8点の彫刻を制作し、蝋型にサインしたが、鋳造したものをみることはなく、8月15日、ブリュッセル・ミモザ通りの自宅にて死去。ガンだったとか。
死後も大規模な個展を世界各地で開催。日本でも、1971年以後数回にわたり紹介されている。





参照:『美術手帖』Vol.50 No.757 1998年6月号





この1998年はルネさんの生誕100周年記念にあたる年で、本国ベルギーの王立美術館で大規模な回顧展が3月6日から6月28日まで開かれました。
ここで、世界各地に所蔵される約200点の作品が一度に見ることができたのです!ああ、見たかったo(>_<)o!(その4年後、日本で開催された回顧展では約90点だけ。まあ、展示するスペースの問題もありますからしょうがないですが…)

世界各地にあった作品を収集するだけに、この企画自体、準備に5年もかけたと展示会キュレーターのフレドリック・レーン氏は言います。
そして、ヨーロッパだけでなく、ブラジルやアメリカ、カナダ、シドニー、日本といったまるで異なる文化や背景を持った場所から作品を借りて展示した訳ですが、各地でルネさんについて分析しようとしていることが分かり、とても興味深かったともあります。


ルネさん自身は、自分の絵を分析されることを好まず、絵についての議論を避けたと言われています。が、ほんとはあれこれ議論されるのをこっそり喜んでいたのでは?とこるちは思います。

私の絵は、眼に見える思考なのです。
こうした思考は、世界が私に差し出す形象だけから形作られます。
それらの形象は、神秘を呼び起こすある配列に従って結び付けられるのです。
私の考える絵画芸術は、主題を独創的なやり方や気まぐれなやり方で扱ったりはしません。
重要なのは、可能な限り正確に描写できるものを見つけることです」

「だまし絵は、眼に見える世界が本来持っている深遠な表現を、描かれたイメージに与えることができるからです。
それに私の絵は、世界から神秘を呼び起こすために、世界に類似しなければならないからです」

マグリット・鈴 マグリット・天気 マグリット・窓



ルネさんの絵には、スーツにネクタイ、山高帽の小市民的な服装で同じ顔をした男が頻繁に登場します。
この服装は、実際に写真に撮られているルネさん本人と同じような服装ですが、ルネさんは絵を描く時はそのような正装でキャンバスに向かっていたようです。
ルネ・マグリット マグリット・山高帽の男 マグリット・自画像


ブリュッセルの「マグリット美術館」は実際にルネさんが住んでいたアパートをそのまま保存してあるのですが、当時ルネさんは食堂や居間にイーゼルを置き、アトリエにしていました。しかし、正装で絵を描いたといわれるように、ルネさんはほとんど全く絵の具をこぼしたり、床を汚すことなく絵を描いたようです。(それだけで、すげぇ!と驚愕の私)
それは、実際に絵を見てみればなお納得できるかもしれません。彼の筆跡は、本当に緻密というか、派手な描き方をせず、静かに丹念に描かれたのではないかと思わせます。

そして、アパートの1階から見える街灯や、居間の暖炉、自身の服装、大好きだったと言われるクノック・ヘイスト(ルネさんが無名時代から絵を買ってくれたグスタフ・ネラン氏が壁画を依頼したカジノがあった場所)の海、ベルギーの町並み、空と雲…。自分の身の回りにあったものを仔細に観察し、正確に描写していたのですね。
マグリット・暖炉 マグリット・リベンジ マグリット・鈴


ルネさんは芸術家にありがちなエキセントリックな性質とは縁遠く、常に日常生活の秩序と清潔さを好み、待ち合わせの時間には正確に登場し、妻を静かに愛し、ポメラニアン犬を飼い、サロンで友と語らい、目茶っ気たっぷりに普通の生活を楽しんでいました。
しかし、ルネさんには社交的な側面と同時に内向的で人と距離をおく側面があったようです。
ベルギーのシュルレアリストの中心だったルネさんは、毎週土曜日の夜に自宅のサロンに友人達を招いて歓談するのですが、数時間もするとお客を残して一人で別室に引っ込んでしまいます。
「ねえ、君。僕は寝ーるぞー」
とシャルルロワ(ジョルジェットと初めて出会った土地)訛りで妻にそう言い扉を閉めてしまうのでした。

そのくせ食堂をアトリエにする彼は、寒がりだったせいだけでなく「自分のまわりに常に誰かにいてほしかったから」とマグリット美術館の館長アンドレ・ガリット氏は説明しています。
この館長さんとは、運がよければ美術館でお話することができます。
…英語かフランス語(オランダ語?ワロン語かフラマン語か)が堪能であればルネさんについておもしろく語れたかもしれません。
こるちは
「私もルネさんを愛している!美術館を作ってくれてありがとう!」
(カタカナ英語だと思ってください…)
と握手を求めるのが精一杯でしたが、気持ちは通じた!?のではないかと思ってます。

このガリット氏、29歳から20年間以上ルネさんについての作品や資料を自力で収集し、その研究と美術館設立に情熱を傾けてきた方です。(美術館設立当時は15年目くらい?)

雑誌『美術手帖』6月号発行時の1998年にはルネさんの住んでいたアパートはまだ工事道具があるだけのガランとした状態でした。このアパートを美術館にしようとしたのは、ほぼ四半世紀にわたってルネさんがここに住み、絵の半分がここで描かれたという重要な時期を過ごしたから、とあります。

後年画家として成功したルネさんですが、自身の美術館を作るという感覚はなかったと思われています。

「なぜなら、シュルレアリスムはアナーキーで、ものを保存してはいけなかったからです。
シュルレアリスムの本質は、超現実的なヴィジョンであって、現在行う企てそのものなのです。
しかし、その面白さを人々に伝えることは、やはり必要なのです」

とガリット氏。
氏がこのエッセゲム通りの住宅が現存していると知ったのが1992年。

その後、1年考えた末にパートナーのヴァン・ド・ヴェルド氏と美術館設立を条件に買い取ったのでした。家主は1925年にこの建物を建てた人物のお孫さんでした。当然家自体が痛んでいるので、その改修工事も含め2,000万ベルギーフラン(当時で約7,000万円)がかかる大事業となりました。1998年あたりでようやくブリュッセル市が援助を申し出ていましたが、公的機関の関心は低く、多くは個人の協力や寄付に助けられているとのことでした。
意外ですね。
しかし、もし日本でこのような小さな私設美術館のためだけに、歩道に1本昔のままの街灯を残そうと思ったら、法律がお役所が規則だからで残せなかったかもしれませんね。個人の理由のために公共の歩道を使わせるわけにはいかない…とかなんとかで。
私は日本の町並みをもっと情緒ある美しさで楽しみたい。お役所の建造物にたいする美意識はなんとかなならんのだろうか…( ̄⊥ ̄)。

このあたりの住宅は、通りに面した面積は実にコンパクトで狭いように感じます。でも玄関を入ってみるといわゆる‘うなぎの寝床’式で、サロンがあり、寝室があり、食堂兼アトリエがあり、台所があり、庭があり、その上に2階、3階がありと想像するよりも広くしつらえてあります。(実際に居住していたのは1階部分のみだったっけな?)

どうしてこんな風に横長な住居なのか訊いてみると、住宅にかかる税金が、通りに面した広さで決まるため、このような住宅設計になるのだと美術館を案内してくれたお兄さんが説明してくれました。


美術手帖』のこの号は、その大回顧展にあわせ「ベルギー:マグリット紀行 イメージの魔術師が残した不思議な時空間」と題した特集を組んだもので、数年後、こるちがベルギーを訪れるための貴重なガイドブック代わりになりました。
この特集を頼りにルネさんのお墓参りまでしてきました!

…道に迷って2時間歩いたけど。
そして後でブリュッセル市内からバスが出ていて15分で行けることが分かったけど…( ̄⊥ ̄;。

この後、2002年の7月6日~8月25日、東京渋谷のザ・ミュージアムで「マグリット展 不思議空間へ」と題しベルギー王立美術館の協力を得て約90点のコレクションが公開されています。
同年、9月1日~10月20日には名古屋市美術館、10月26日~12月8日は広島県立美術館に巡回。

もち、観に行きましたとも!10回位は行きました。受け付けに友人がいて、行く度に「また来たか!」と笑われました。


ベルギー専門旅行店:ベルギートラベルセンターなんてところがあるとは知らなかった!次回の旅の参考にしてみましょう。
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